御所市2

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 昨日、久しぶりに家に戻りました。ガミさんが伊勢神宮を創ったのは持統天皇だと言う話をして、息子と二人で大笑いしました。式年遷宮は確かにそうかもしれませんが(今、ガミさんは式年遷宮に凝っている)、伊勢神宮は、景行天皇の妹倭姫命(やまとひめ)が、天照大御神と旅をして、天照大神が「ここがいい」と仰ったので、今の地に落ち着きました。景行天皇は、垂仁天皇の御子です。日本武尊は景行天皇の息子です。日本武尊は、以前、このブログに書いた「ヤマトを救った琵琶湖の女神」(つまり神功皇后)の出身地である息長氏(おきながし)と日本武尊に嫉妬する、景行天皇の女性の一人の陰謀で命を落とします。

 でも、日本武尊に息子が皇位につきます。それが仲哀天皇(第十四代)です。仲哀天皇の后が神功皇后です。応神天皇の母です。応神天皇の御子が後の仁徳天皇です。このあたりの我が國の歴史は実に面白い。

 驚いたことは、息子が、この話を全て知っていて、きちんと説明してくれたことです。うれしい。学校のお勉強ができるだけではだめです。それと「古事記の神代は覚えているけれど人代をもう少し勉強したい」「古事記の原文をもう一度勉強したいから持って帰ってきてくれ」とのこと。世界一の親ばかチャンピオンの私が、久しぶりに親ばかを堪能した夜でした。

 さて、このシリーズ二回目です。葛城襲津彦(そつひこ)からでしたね。
 葛城襲津彦は、神功紀に記載があります。四世紀後半に我が國の対朝鮮外交で活躍した将軍であり、その娘は仁徳天皇の皇后になりました。その皇后は、後の三天皇を生みましたし、その三天皇の一人が襲津彦の孫を娶っています。その孫がまた、後の二人の天皇を生んでいます。葛城氏はこうして、我が國の外交を掌握する一方、皇室の外戚として一大勢力を築きました。

 ちょっと時代を戻しましょう。御所(ごぜ)駅の近くに鴨都波神社(かもつばじんじゃ)があります。この神社は、襲津彦葛城氏に先行した鴨氏の居住地です。

 神社の御祭神は鴨都波八重事代主命(かもつばやえことしろぬしのみこと)です。

 都波(つば)は「水辺」です。八重は「しばしば」。事は「祭」です。代は「田」です。つまり、「鴨の水辺で折り目ごとに田の神を祭った人々」の弥生時代前期からの集落遺跡です。

 なんでも「葛城王朝説」というものがあるそうです。第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第九代開化天皇までの天皇たちの宮と陵墓がこの地域に集まっているので、ヤマト王権の初期段階に、葛城の鴨族を中心とする王朝があったのではないかということです。

 この説は、現代では否定されていますが、なんともロマンのある話ではありませんか。我が國の継続・連続のすごさです。欧米や支那ではこうはいきません。征服者によって前の歴史が破壊されるからです。朝鮮? 話にもなりません。

 この御所あたりを歩くと、ほんとうに、歴史の息吹がそのまま残っている空気を感じます。古代がそのままそこにあるような・・・。我が國の歴史は天皇家の歴史であり、天皇家の存在があったからこそ、我が國の継続と連続が実現しました。世界の奇跡です。

 まあ、そこまで堅苦しく考えなくても、ちょっと知っていたら旅がうんと楽しくなりますよ。

鴨都波神社

鴨都波神社です。

人間の 悪しき習いを 超越し 続いた奇跡 瑞穂の國の

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このページは、宝徳 健が2013年6月 9日 08:26に書いたブログ記事です。

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