北清事変の真実8

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 日本軍の北京籠城中、こんなエピソードがありました。
 柴五郎中佐が、林という金を欲しがる清國兵を雇い、天津の福島中将に密書を託しました。その後、林は確かにそれを送り届け、しかも福島少将の返書まで携えてきました。ところが林は柴中佐が差し出す礼金を断ったのです。聞けば天津にいる父親から次のように言われたそうです。

「お前は良いことをした。天津の外国軍をみると、ほとんど我が國を滅ぼそうとしているにもかかわらず、日本軍だけは正々堂々たる王者の軍で、乱を平定し民を救おうとしている。我が國は存続するために日本を頼らなくてはならない。お前が使われたということは、天が我が國を見捨てていないということだ」。その後林は日露戦争でも我が軍に協力しました。

 こういう支那人もたくさんいます。そして我が國がなかったら、もしかしたら今の支那人の共産國家はなかったかもしれません。

 他國の軍隊は、ひどかったようです。天津の宿営地では住民が恐怖で逃げ出したほどでした。他國の軍隊は、公然と略奪も働きました。

 特にひどかったのがロシアです。ロシア軍の警備地区では、殺人、略奪、婦女暴行が後を絶たず、連日のように自殺者が出ていたといいます。司令官のリネウィッチ自身も略奪に加わっていたと、当時のロシア蔵相のウイッテが回想録で書いています。

 ドイツもひどかったようです。そもそも皇帝が「殺しつくし、奪いつくし、焼き尽くせ」と命令しました。ドイツなんてこんなものです。支那人が「ドイツ軍の占領地区は地獄であった」と書き綴っています。

 我が日本軍だけが、軍紀が厳正でした。我が軍警備地区に、避難民が殺到しました。

 どこが侵略戦争なのだろうか??? 

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このページは、宝徳 健が2013年6月16日 21:56に書いたブログ記事です。

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