北清事変の真実9

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 当時、我が國は、西洋こそが文明と考えられていた時代だったので、「文明國の一員」とは認められていませんでした。

 國際法を遵守してこそ文明國という観念が我が國には強いのでした。だから我が軍は、この事変において、あくまでも國際法を遵守し軍紀を厳粛にして我が國がすでに欧米並みの文明を有していることをかたくなまでに示しました。

 これを実現せしめたのは「皇軍」の誇りです。よって我が國は住民の殺害はもとひょり、略奪さえ御法度でした。秋山好古は、「本國への持ち帰りを許可するものは、戦闘で手に入れた敵の武器のみ」と訓示しました。

 その結果が各國による我が軍への称賛です。ロンドン・タイムズは「公使館区域の救出は日本軍の力によるものと全世界が感謝している。列國が外交団の虐殺や國旗凌辱を免れたのは、ひとえに日本軍のおかげだ。日本は欧米列強の伴侶にふさわしい」と論評しています。

 柴五郎中佐を中心としたこの我が軍の活躍こそが、後の日英同盟につながります。我が軍は、大東亜戦争で解体されるまで、この皇軍の誇りに支えられていました。

 ところが・・・・。つづく。

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このページは、宝徳 健が2013年6月20日 22:55に書いたブログ記事です。

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