duty

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 今月だったかな。「義」についてこのブログで書きました。

 「義」のつく漢字として「義務」という言葉があります。この「義務」は、明治時代に造られた単語だそうです。ですから、それまでの我が國は、義務という言葉に表される内容を持っていなかったと、中西先生の「日本人の忘れ物」に書いてありました。
 義務は英語の「duty」を翻訳した言葉です。「しなければならないこと」とでも言うのでしょうか?

 dutyの元となった言葉は「due(デュー)」だそうです。デューとは、それをすることが当然の場合やそうする責任がある場合に用いられます。「お蔭さま」とでも言うのでしょうか?

 例えば、教育にしても、教育されるのが当然であり、されなければならない責任があり、そう思う結果、お蔭で教育を受けられたということになります。

 例えばイギリスのネルソン提督が戦死した時、このデューを使った最後の言葉を残しているそうです。自分は英国に対して当然のことをして責任を果たして死ぬと考えたのがネルソン提督で、彼はいやいやながら、義務を果たして死んだのではありませんでした。アングロサクソンにも中々すごい人がいるものです。ルーズベルトやマッカーサーとはえらい違いです。

 つまり、デューティとは、自分で納得し、自分でっ極的にやるべき意義を見出し、それをしなければ責任を問われると考えた行為なのです。極めて主体的な行為です。

 大学を9月入学にするだとか、英語教育を強制するだとか、愚かな教育改革の議論が盛んになっていますが、その議論をする政治家や官僚こそが、こういう基本的なことを考える必要があります。

 今の学校教育は勉強を嫌いになれ~、嫌いになれ~と呪文を唱えています。親がそれに乗っかります。間違った意味の「義務」を子供に押し付けます。これでは、子供が勉強を好きになるはずがありませんし、何より、子供がかわいそうです。

 まずは「國語」です。一に國語、二に國語、三四がなくて、五に算数とは、藤原正彦先生の言葉です。國語をきちんと理解しないと、こういう過った政治家や官僚や親が育つということを見事に示しています。

 先の大戦の英霊たちも、みんなが言うように、いやいやとか、図らずも自分の命を捧げたのではありません。本来の意味のデューで國を守ってくれました。かつての優秀な我が國の女性は、男尊女卑を受けていたのではありません。本来の意味のデューを知っていたのです。

 なぜか。世界で最も優れた家族主義があったからです。そして、みんな、勉強がしたくてしたくてたまらなかったからです。

くだらない 教育議論を する前に 國の言葉と 國柄を識る

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このページは、宝徳 健が2013年6月22日 00:13に書いたブログ記事です。

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