再 葛城路

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 2011年9月23日掲載分です。
 奈良県御所(ごせ)市にある、葛城古道をバーチャル散策しています。

 高鴨神社→高天彦神社→一言主神社→神宮の芝→九品寺→鴨山口神社→不動寺→火雷神社→平岡極楽寺→当麻坂と廻りました。

 この後、石光寺から二上山へと散策しますが、その前に、散策をより楽しくするために、少しお勉強をしましょう。

 みなさんは、大津皇子(おおつのみこ)をご存知ですか?

 これは日本人として知っておいた方がよいことなので、何回かに分けて解説しますね。

 大津皇子は天武天皇の第3皇子で,母は天智天皇の長女の大田皇女(おおたのひめみこ)。大田皇女は持統天皇の姉です。

 斉明天皇は唐や新羅に攻め込まれている百済の救済のために朝鮮半島に兵を出すことを決意しました。661(斉明7)年1月6日,天皇自らが中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)らを伴い,九州北部に向け難波を出ました。船で瀬戸内海を抜け、那大津(なのおおつ:現在の福岡県博多港)に到着し,
磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮ながつのみや福岡市)に入りました。662年,天智天皇の息子である大海人皇子と鵜野皇女の間に草壁皇子が誕生し,663年に那大津にて,大海人皇子と大田皇女の間に大津皇子が誕生しました。生まれた場所の名からこの皇子を大津皇子と名付けられました。「大津」は天智天皇が後に都をおいた近江大津宮(滋賀県大津)から付けられた名だという説もあります。

 大群を率いて九州入りしましたが,母斉明天皇が病死し,朝鮮半島での激しい戦で倭軍も敗退しました。これが白村江の戦です。小学校のときに習いましたよね。なつかしいなあ。

 朝鮮半島のスポンサーである支那軍の日本侵略(報復)を恐れた中大兄皇子は、すぐさま都に戻って国防を強化し
ました。667年には飛鳥から、国防に適した大津に都を遷都し,668年1月天智天皇となりました。

 天智天皇は大津宮で幼い大津皇子をたいそうかわいがりました。
高市皇子,草壁皇子の次に生まれた大津皇子は 大海人皇子にとっても大切な我が子でした。しかし,天智天皇が後継者として子の大友皇子にしようと考えたとき,大海人皇子は高市皇子と大津皇子を大津宮に残して吉野に向かいます。言わばこの二人は大海人皇子が朝廷に反抗しないための人質のようなものだったのです。

 672年,大海人皇子は大友皇子に対して戦を挑みました。これが、壬申の乱です。高市皇子19歳,大津皇子10歳の時でした。大津宮にいた二人の皇子は大海人皇子の使いの者によって別々に宮を脱出,大津皇子は朝明郡(あさけのこおり)で、父 大海人皇子と再会しました。

 壬申の乱の結果は、ご存知のとおり、大海人皇子の勝利で終わります。大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)で即位し、天武天皇となりました。


 天武天皇は高市皇子,大津皇子,草壁皇子と天智天皇の子の川嶋皇子,施基(しき)皇子,皇后の鵜野讃良皇女(うののさら らのひめみこ:後の持統天皇)らを連れて吉野へ行幸した。天皇は6人の皇子たちに,戦いをせぬよう力を合わせて世の中を治めることを約束さました。そして, 皇子等を抱きしめて,「母は違うが同じ母の子として慈しむ」と子らにいいました。このようにして,皇位継承のための争いを二度と起こさないように誓約させました。

 天皇家が、必死になって今後のあり方を作ろうとした時代のことです。しっかりと勉強しましょう。次回に続きます。

 では、拙首です。

 
一系の 歴史がなせる このロマン わがしきしまは ここに輝く

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このページは、宝徳 健が2013年6月22日 21:41に書いたブログ記事です。

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