金閣寺(歴史的假名遣ひと正しい漢字)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 三島や谷崎を讀むと、今の小説が讀めなくなります。それほどのレベルの違ひを感じます。

 あんな事件があつたので、三島由紀夫は「文學」という觀點からは(一般レベルで)正當な評価がされてゐないやうな氣がします。

 つづきです。
 體(体)も弱く、駈足をしても鐵棒をやつても人に負ける上に、生來の吃りが、ますます私を引込思案にした。そしてみんなが、私をお寺の子だと知つてゐた。惡童たちは、吃りの坊主が吃りながらお經を讀む眞似をしてからかつた。公団の中に、吃りの岡つ引の出てくるのがあつて、さういふところをわざと聲を出して、私に讀んできかせたりした。

 吃りは、いふまでもなく、私と外界のあひだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私との内界と外界との間の扉の鍵のやうなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。

 一般の人は、自由に言葉をあやつることによつて、内界と外界との間の戸をあけつぱなしにして、風とほしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆ついてしまつてゐるのである。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/5485

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2014年7月12日 04:01に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「百人一首 七十七」です。

次のブログ記事は「シラス國 日本 弐(皇紀弐千六百七十四年七月十一日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。