金閣寺(正しい漢字と歴史的假名遣ひ)

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 三島由紀夫の金閣寺です。有爲子はどうなるのでせうか?
 ・・・・・私たちはこの村に海軍の脱走兵が逃げ込んだなどといふことは夢にも知らなかつた。ただ晝(昼)ごろ村役場へ憲兵が來た。しかし憲兵の來るのはめづらしくなかつたから、さほどにも思はなかつた。

 それは十月末の明るい一日である。私はいつものやうに學校へゆき、夜の勉強をすませて、寢るべき時刻であつた。燈を消さうとして見下ろした村道に、大ぜいの人が、犬の群のやうに息せいて駆ける音がきこえた。私は階下に下りた。玄關口には學友の一人が立つてゐて、起きてきた叔父叔母や私に、目を丸くして叫んだ。

「今、むかうで、有爲子が憲兵につかまつてゐるぞ。一緒に行かう」

 私は下駄をつつかけて駆け出した。月のよい夜で、刈田のそこかしこに稻架(はぎ)が鮮明な影を落としてゐた。

 一むらの木立のかげに、黑い人影が集まつてゐる。黑つぽい洋服を着た有爲子が地面に坐つてゐる。その顔が大そう白い。まはりにゐるのは、四五人の憲兵と、兩親である。憲兵の一人が、辯當包みのやうなものを差出して、怒鳴つてゐる。父親はあちこちへ顔を動かし、憲兵に詫び言を言つたり、娘を責め立てたりしてゐる。母親はうづくまつて泣いてゐる。

 私たちは田を一つ隔てたこちらの畦から眺めてゐた。見物はだんだん増え、お互ひに無言の肩が觸れた。月が絞られたやうに小さく、われわれの頭上にあつた。

 學友が私の耳もとで説明した。

 辯當包みを持つて家を抜け出して、隣の部落へ行かうとしてゐた有爲子が、待ち伏せしてゐた憲兵につかまつたこと。その辯當は脱走兵へ届けるものに相違ないこと。脱走兵と有爲子は海軍病院で親しくなり、そのために妊娠した有爲子が病院を追ひ出されたこと。憲兵は脱走兵の隱れ家を言へと詰問してゐるが、有爲子はそこに坐つたまま一歩も動かず、頑なに押し默つてゐること・・・・・。

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このページは、宝徳 健が2014年8月11日 09:06に書いたブログ記事です。

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