凛として 十一

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 昨日、入れたはずなのに、入つてゐませんでした。政孝の「けがの功名」まででした。つづきです。
第2章 酒場を遊び場に
「これからの長い人生、竹原の酒づくりで終わってしまうのか」
洋酒に興味、熱心な働きに評価 つづき


 政孝が育った本家の竹鶴酒造の建物は約二百三十年前のものだ。「安芸の小京都」と呼ばれる竹原の町並み保存地区の一角にあり、今も変わらぬ姿で江戸時代をしのばせる。

 現在の竹鶴酒造社長の竹鶴寿夫は政孝のいとこの息子にあたる。

 寿夫は「政孝さんは、酒蔵を遊び場に育ったので自然と酒に興味を持ったのでしょうね。私の祖父を兄のように慕っていましたから。もしものときには、酒造業を継がなくては、と考えたのだと思います」と話す。

 中学は八キロ離れた忠海中学へ通った。往復四時間はきつく、三年生の時に寮に入る。寮での上下関係は厳しかった。下級生に池田勇人がいた。

 池田は政孝の布団の上げ下ろし係だった。

 後に首相になった池田は、国際的なパーティーでも国産ウイスキーを使うように指示した。昭和三十八年の総選挙投票日にも選挙本部を抜け出し、政孝のパーティーに駆けつけている。

 友情は池田が亡くなるまで続いた。自伝で政孝は「実に義理堅い男だった」としのんでいる。

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このページは、宝徳 健が2014年10月 1日 01:39に書いたブログ記事です。

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