凛として 二十二

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 今日から第4章に入ります。
 二人はグラスゴーのステーションホテルで、リタの家族や阿部に祝福され正式な結婚式を挙げた。そして十一月、政孝は新妻を伴い横浜港に帰国した。

第4章 蒸留所の産声
「本物をつくらないなら私が会社に籍をおいて高禄をはむ意味はない」


本場の製法にこだわり、余市へ

「日本で初めて、本物のウイスキーをつくることができる」

 大正九(1920)年秋、確かな手応えを得てスコットランドから帰国した竹鶴政孝を待っていたのは、第一次世界大戦後の「戰後大恐慌」だった。軍需景気とともに飛躍的に売上を伸ばした摂津酒造も、業績不振にあえいでいた。

 政孝は「本格モルトウイスキー醸造計画書」を何度も書き直し提出するが、結局、重役会議で蒸留所建設は無理と決まる。

 洋酒部門の責任者として高給を得ていた政孝だが、「本格ウイスキーを摂津酒造でつくらないなら、私が会社に籍をおいて高禄をはむ意味はない。それを承知で社長の恩恵に甘んじて過ごすことはどうしてもできない」と退社を決意。

 大正十一年春、阿部嘉平衛社長に会い「しばらく浪人してみたいと思います」と伝えた。

 阿部社長は「残念だが・・・」とポツリと一言漏らすだけだった。

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このページは、宝徳 健が2014年10月20日 02:04に書いたブログ記事です。

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