金閣寺(歴史的假名遣ひと正しい漢字)

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 つづきです。
 金閣寺、すなはち鹿苑寺には、本來十二三人の人がゐるべきだつた。しかし應召や徴用で、七十幾つの案内人や受付役、六十近い炊事婦のほかには、執事、副執事、それにわれわれ徒弟三人がゐるだけであつた。老人たちは苔が生えて半分死んでをり、少年たちは要するに子供である。執事も副司(ふうす)と云つて、會計の仕事で手一杯である。

 數日後、私は住職(われわれは彼を老師と呼んでゐる)の部屋へ、新聞を届ける役目をいひつかつた。新聞が來るのは朝課がすみ、拭掃除のスンダころの時刻である。少人數で、わづかのあひだに、三十も部屋數のある寺の、廊下といふ廊下を拭くのでは、仕事はいきほい粗雜になる。玄關で、新聞をとつて、使者の間の前廊下をとほり、客殿の裏から一まはりして、間(あひ)の廊下を渡つて、老師の居る大書院までゆく。そこまでの廊下が、乾けよがしに、半分バケツをぶちまけるやうな拭き方をしてあるので、板のくぼみのところどことには、水たまりが朝陽に光つてゐて、踝(くるぶし)まで濡れてしまふ。それが夏のことだから、いい氣持ちである。しかし老師の部屋の障子の外にひざまづき、
「おねがひいたします」
と聲をかけて、
「うう」
といふ答へがあつて部屋に上がるまでに、僧衣の裾で、濡れた足を手早く拭つておくという秘傳を、私は朋輩から敎はつた。

 私は印刷のインクの放つ、俗世の鮮烈な匂ひを嗅ぎながら、新聞の大身だしを、ちらしらと盗み見て廊下をいそいだ。すると「帝都空襲不可避か?」といふ見出しが讀まれた。

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このページは、宝徳 健が2014年10月20日 02:57に書いたブログ記事です。

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