凛として 三十一

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 政孝とリタが余市で住み始めました。
 二人は工場の敷地内に住み、朝は政孝が自ら始業ベルを鳴らした。工場内の衛生管理や製品にはうるさい経営者だったが、社員への気配りは忘れなかった。

 昭和十二年に入社した渡部政治は瓶詰の雑用係から始め、蒸留の担当になる。

「聞き上手な人でした。ポットスチル(単式蒸留器)を石炭で熱して蒸留するのですが、石炭が片寄らないように、まんべんかくしゃべるでぱっとくべるのは難しい。しばらくすると『君たちはぼくらより上だな』と声をかけてくださったり、厳しいけれど、若い人たちには優しかった」

 社員一丸となって新事業へと意欲を燃やしていた大日本果汁だが、食いつなぐはずのリンゴジュースが売れなかった。

 ジュースでも政孝は「本物」にこだわったからだ。政孝が作ったのは、一本のリンゴ五個分を使った100%果汁で三十銭した。ラムネが六銭の時代である。人工甘味料の甘さに慣れた人たちには、リンゴ本来の持つ酸味も「すっぱい」と感じられた。

 会社の赤字はふくらむ一方だった。十二年にはリンゴやぶどうのゼリーなども作り始める。

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このページは、宝徳 健が2014年11月 4日 22:18に書いたブログ記事です。

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