自分探しなど不要な國だつた(皇紀弍千六百七十五年二月七日 弍)

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 先ほどの記事と少し關連するかもしれません。

 最近、大人の犯罪がとても多くなつてゐます。これは幼少期、少年期の過ごし方に問題があると思はれます。また、すぐにメソメソする男が増えたのも最近の傾向です。これは、十代、二十代にきちんとしんどい思ひをしなかつた人間が増えているからです。

 「落ち込む」といふ表現を使う「奴」が多くなつてゐることも氣になります。
 落ち込むなどといふのは「暇な奴」のすることです。

 これらはすべてひとつのことが原因です。

 つまり、「間違つた個性教育が原因で天命を追求しない人間が増えたこと」です。また、その根本は、國體および家族制度の崩壊です。

 結婚の自由や職業選択の自由などなど、なんでも勝手にやつてよい世の中になりました。人殺しまで・・・。朝日新聞などの左翼は「犯罪人にも人權がある」とのたまいます。

 皆さんは、囲碁はやつたことはありますか? 私は將棋の方が好きなのですが、囲碁も經驗があります。将棋は、陣形が決まつてゐて、そこから、何千種類もに変化する攻防が始まります。

 囲碁は、「好きなところに打つてよい」といふ非常にシンプルなルールです。はじめて囲碁をやつたときに、いざ打とうとすると、「好きなところに打つてよい」ので「どこにも打つことができない」のです。

 「自由とはこんなに不便で怖いものか」と思ひました。

 「なんでも自由にやつてよい」「個性が大切で全體のことなど考へなくてもよい」のが、敗戰後の堕落した民主主義です。

 個性の本來の意味は、まずは、「自分が存在する社會において、自分の眞の約割は何かを追求すること」です。これがなかなか見つからない(今の世の中は)。 そして、見つけたらその使命を「一隅を照らす」やうに、コツコツコツコツと果たしていくことです。自由氣ままに生きることではありません。

 見てください、自由自由と生きてきた多くの若者(すべてとは云ひません。素晴らしい人もたくさんゐます)の顔を、見分けが付かないぐらい、同じ顔をしてゐます。自由を追求した結果、むしろ個性が失くなつてしまひました。

 「落ち込む」「何をやつていいかからない」「自分にあつた仕事が見つからない」など、歳をとつても「自分探しをしてゐる愚か者」が巷にあふれてゐます。

 かつてあれほど美しかつた我が國には、自分探しなど必要がありませんでした。

 國體を臣民が知つてゐました。人間社會で奇跡のやうな國體を作り上げた我が國です。八千數百年前から永々と續いてきた天皇陛下を中止とする家族主義の國體です。「ウシハク」ではなく「シラス」の國體です。

 國體といふ人間社會のお手本を持つ我が國は、家庭や個人がその生き方を眞似ました。家族主義です(といふか究極の民主主義です)。

 それぞれが約割を認識し、一隅を照らす生き方をしてゐました。だから、自分探しなど必要のない國だつたのです。

 現代人はそれを「窮屈な社會」「間違つた社會」と云ひます。でも、結果を見れば、どちらに軍配があがるかはまう明らかですよね。

 落ち込む暇があつたら、自分の天命・使命をコツコツと果たしてゐたのです。

 永年續く老舗企業がこれに似てゐます。強い老舗企業の特徴の一つに「三世代同居が多い」といふのがあります。つまり、子供の頃から、当たり前のやうに使命を捉へてゐるので、自分探しの旅をする必要がないのです。

 私たちが盲目的に信じてしまつてゐる、敗戰後のこの堕落した社會を、もうそろそろなんとかしませう。

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このページは、宝徳 健が2015年2月 7日 04:34に書いたブログ記事です。

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