親父紀行

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   父は、旅行が好きです。そして、旅行に行くたびに、紀行を手紙にして送ってきます。少しずつ紹介します。「地球の歩き方」よりも面白いかも。旅行好きの父 も、母が亡くなるまでは、ほとんど旅行をしませんでした。理由は三つ。とても貧しかった。仕事が忙しかった。母が病気だった(でも、母もすごく旅行好き で、病気なのによく旅に出たがりました。いずれ書きます)。
 今回は、東北旅行を2回にわたって掲載します。
東北新幹線―中尊寺・金色堂・毛越寺―(大船渡線)猊鼻渓
-上野発朝一番の東北新幹線Maxやまびこ31号、この列車は2階建だ。1階4号車2番A席に座り、一ノ関駅で東北本線に乗換えて平泉へ-
 一階はホームの下に座席があるので、ミニスカートの奥の景色?がいいので、この車両ができた当時、男は好んで1階座席を求めたという。
自動改札を通った乗車券は車内で検札しないとのアナウンスがある。ボクが改札機を通した切符の番号は、車掌さんのモバイルに登録されているのだろう。車内 販売の売り子さんは、2階建のためカートが使えなくて、いろいろなものを袋に振り分けてぶら下げている。重たいだろうなと同情する。
 平泉着。雨を予測して、長靴を履き傘をかついでいるのにお天気がいい。クソッ。
平泉は、岩手県西磐井郡にある小さな町だが、平安後期平泉の人口は10万人を超えたといい、奥州全域に君臨した藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の黄金王国だ。
 「義経堂」-源義経がここに滞在していた(後述)。芭蕉は《夏草や兵どもが夢の跡》と詠んでいる。
 清衡は金箔と七宝螺鈿に輝く「金色堂」-《五月雨の降り残してや光堂》をはじめ40余の堂塔を持つ「中尊寺」を造営した。奥州は日本でも最も豊かな土地だったといわれ京都に次ぐ繁栄を誇ったのだといわれる。
 中尊寺・金色堂まで行くのは、800mの急坂をたどらなければならない。途中「弁慶堂」がある。武蔵坊弁慶は最後の最後まで義経を護ったことで知られて いる。平泉には、弁慶祭や、武蔵坊弁慶(食堂)、弁慶松(漆器店)、弁慶が餅(紅白の餅)など、やたらに弁慶が目につく。武蔵坊弁慶という名のお酒もあっ た。
 この辺りには、ボクが植えて背丈だけが伸びて、全然花の咲かない"エンゼルトランペット"の花が各戸に見られた。ボクのトランペットはもう肩の高さだ。どうして花が咲かないのか。
 父清衡の厚い仏教信仰と伽藍造営事業(中尊寺造営)を見て育った二代基衡は、自らも寺院の建立に情熱を注ぎ、中尊寺をしのぐ壮麗な伽藍「毛越寺」を造り あげた。毛越寺に行く道が分からなくなったので通りがかりのおばさんに聞く。「モーツージハサ、マッスグイッテミギ(右)サマガッタラスグ...」と日除けの 頬被りを解いて教えてくれた。
 祖父基衡の壮大な遺志を継いだ秀衡は三尊構想を実現するため、三つ目の大伽藍「無量光院」を造営したといわれるが、いまは『特別史跡無量光院跡』の標識と、いくつか礎石が残るだけだった。
 藤原氏といえば源義経につながる。義経は牛若丸といった幼児とここ平泉で過ごし秀衡を父のように慕った。頼朝が伊豆で挙兵したとき、義経は兄の許に馳せ 感激の対面を果たし、兄弟は手を取り合って涙し喜び合ったと史実は伝えているが、義経のその後を思うとき、このときが兄弟が最も心を許した瞬間ではなかっ たのだろうか。
 天才的武将、源九郎義経は平家追討に奔り、宇治川・一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦して平家討滅の殊勲を挙げたが、天才的戦術家義経は政治的にはあまりにも無邪気で、兄頼朝の怒りをかい、幼児期を過ごした奥州平泉に身を潜めなければならなかった。
 しかし、義経が慈父とも仰ぐ秀衡が急死し四代目当主となった泰衡は、鎌倉幕府の圧力に屈して突如として義経を襲い、弁慶以下10人も斬死して果てた。こ こ平泉に義経は31年の生涯を終えたといわれている。ここからが「英雄。義経」の話は面白くなり、「成吉思汗は義経である」の話にまでふくらむのだ。『吾 妻鏡』は義経最後の模様を伝えているが、東北各地には「義経北行伝説」が残っていて、平泉で斬首されたのは義経の影武者であり、義経主従は来たに逃れて八 戸―三厩を経て蝦夷に渡りチンギスハーン(成吉思汗)になったといわれる。
 事実、八戸市に至る三陸海岸には、至るところに義経の道中の跡が残っている。海路八戸に上陸した義経ら一行6~7人は、ここに居を定めた。このため八戸 市には義経ゆかりの伝説があちらこちらに残されている。およそ6年間八戸に滞在した義経らは、元久元年(1205)再び北を目指して八戸を去っていくの だ。
 八戸藩士・摂待治郷が書いた『八戸祠さがし』によると、「蝦夷に渡るため糧米や粟など七斗を借用する」旨の義経の借用書が残されていたといわれる。ま た、落ち延びていく義経は、平家物語が描くさっそうとした義経と比べて、何とうらぶれてしまったことかという記述も残されているという。
 話は戻るが、幕府の圧力で義経主従を討った泰衡は論功行賞ものだが、そうはいかなかった。奥州平定を目論む鎌倉幕府(頼朝)に征服され、あえない最後を遂げ「奥州・藤原氏」の時代は終わりを告げたのだ。
 その後奥州の住民は貧困に喘ぎ、飢饉のときは餓死者がでるほどになってきているが、これは藤原氏の時代は交易による繁栄であったのだが、その後の武家世界での過酷な租税の取り立てで一挙に貧しい地域になったのだという。
 JR一ノ関に引き返す。この市の名前はよく知っているので、なにか見るところはないかと尋ねるが「ナイ」と言う。地元の人がナイというからには本当にな いのだろうと駅前を眺めると、「大槻三賢人像」があった。大槻玄澤-蘭学者の先覚で、前野良澤・杉田玄白に師事したとある。名前は、両先生の一字をもらっ たのか。大槻磐渓-儒学者。大槻文彦-初めての国語辞書『玄海』を著す。
 ここからは「厳美渓」と「猊鼻渓」の渓谷美を楽しむことができるのだが、帰りの列車の都合で、JR大船渡線に乗り猊鼻渓駅で降りて「猊鼻渓」まで足を延 ばした。ここは岩手県東山町、砂鉄川(北上川支流)の峡谷だ。"汽車の旅"は連絡する列車の時刻に気を使わなければならないが、思いがけず「舟下り」を楽 しむ時間があったのだ。底まで見透せる砂鉄川の両岸の垂直に切り立った100mを超える岸壁を見上げて、自然の造り出す景観にただ感嘆するばかりだった。 船頭さんの歌う"げいび追分"がすばらしい美声だったのでご紹介する。
 《清き流れの砂鉄の川に/舟を浮かべてさをさせば/曇り勝ちなる心の空もネ/晴れて呉れます獅子の鼻/探ね来て見よ岩手の里に/世にも稀なる此の景色》
 ここは無尽蔵といわれる石灰石が採掘されているので、石灰を原料とするセメント工場が当然あるはずだと思っていたら、三菱マテリアル株岩手工場があった。石灰石といえば鍾乳洞だが-これもちゃんとあった。
 大船渡線を太平洋側に行けば、千厩を経て気仙沼・陸前高田に出てリアス式海岸を堪能できるのだが、ケチケチ旅行のボクは引き返して、一ノ関から新幹線やまびこ52号に乗り腹が減ったので駅弁を食べながら、午後9時上野着。
 ここで種明かしをしましょう。JR東日本が"大人の休日パス"を9千円で売り出した。連続する3日間というので、どこかへ行って、泊まって翌日・・・と いうような「連続する3日」を考えていたが、ハッとひらめいた。柏を出発して柏に帰ってきて、翌日も柏を出て・・・でも「連続」になるのではないか。北柏 駅に聞きに行くと「それでいい」というが、田舎駅では信用ならんと、柏駅まで行き聞くとソウダと言う。
 娘にこれを話すと「駅の人に一言書いてもらい、ハンコも押してもらえ」という。「宿」に泊まらずに9千円で3日間、毎日どこかへ行けるのだ。しかも全部 指定席。こんなうまい話があるのか・・・と眉に唾をつけた。これを考えたオレは頭がいいなぁと感心した次第。1.東北新幹線...一ノ関-平泉・猊鼻渓 2. 山形新幹線...新庄・山寺(芭蕉の跡をたどる) 3.長野新幹線...(長野)・松本(旧制松本高等学校跡) を3日間で走り回ることにした。
 次は山形新幹線のお話しをします。この旅は正規に計算すると、運賃・料金だけで6万円になる。普通に考える3日間連続して・・・なら宿費も入れたら10万円になるのではないだろうか。なんだかタダで旅行している気分である。

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このページは、宝徳 健が2007年4月14日 04:45に書いたブログ記事です。

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