未来日本昔話(南京大虐殺の嘘 その4)

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 前回の話しで、日本軍は南京の分厚い城門に挑みました。特に中華門を担当した熊本第六師団の攻撃は壮絶でした、。まずは、濠に阻まれ渡ることができません。砲弾も分厚い城壁に跳ね返されます。そのとき、熊本第六師団の前に、小船が流れてきました。第47連帯三明大尉が叫びました。「独力突撃し、城壁を占領する」と。何と、三明大尉は、その小船で30メートルの濠を渡り、城壁をよじ登るためはしごを担いで河から城壁までの50メートルを走り、高さ20メートルの城壁にはしごを二つつないで立てかけ、それをよじ登って城壁の上を占領しようというのです。決死隊6名が選ばれ、なんと、この無謀とも思える作戦を、敵の銃弾が降り注ぐ中、成功させてしまいました。

 そして、昭和12年12月12日12時、中華門の城壁を占領し日章旗を打ち立てたのでした。南京攻略のきっかけとなった攻防です。
ま「おはよう、おばあちゃん。泊めてくれてありがとう」
お「おはよう、まさる。よく眠れたかい? 朝ごはんにするから顔を洗っておいで」
ま「はーいい」

ま「わーい、ハムエッグだ~」
お「たくさんお食べ。おばあちゃん、うれしいよ。いつも一人だから、まさるが泊まってくれると」
ま「また泊まるね」

ま「昨日、寝るときに話してくれた中華門の攻防すごいね」
お「昔の日本人は勇敢だったんだね。今は、国がつぶれて他国に支配され、情けなくなってしまったけど」

ま「南京攻略線を指揮していた松井石根(まついいわね)司令官って、すごく支那のことが好きだったんだって?」
お「そうよ、日本軍の中でも、支那好きで有名だったの。それだけじゃなくて、蒋介石と同志だったんだよ。蒋介石は明治40年から四年間、日本の陸軍士官学校に留学しているんだ。そのとき、良い相談相手になって、親身に身の回りを世話したのが、松井大将なんだ」

ま「へー! 日本は、支那に支援していたんだ」
お「そうだよ。日露戦争で日本がロシアに勝った後、それまで日本を馬鹿にしていた支那も、日本を見直し、科挙を捨てて、日本の教育を真似ようとしたんだ」
ま「あっ、その後は知っている。最初は松井大将と支那の蒋介石は『日本なくして支那なし、支那なくして日本なし』と考えあい、日支平和の運動を起こしていたんだ」

お「そうだね。日本は、日本と支那が組めば、欧米の横暴に対抗できると考えて、支那に物心両面の支援を惜しみなくしたんだよ。学校も作ったし、生産性の悪い支那の農業を改革してあてあげたり」
ま「それがどうして・・・」
お「それが支那人さ。蒋介石は、とっとと裏切って、欧米についたんだ。それが、支那事変を長引かせる一番の原因となったのさ。日本は支那事変をやめたくてしかたがなかったのに」

ま「いよいよ、日本の南京統治だね。」
お「そうだよ、これがものすごく、よい話でね。支那人でさえ、感動したくらい日本の統治はすばらしかったんだ」
ま「歴史って、変だね。嘘を教えられると、そのまま信じてしまう。おばあちゃん、この後、亡くなったおじいちゃんの書斎に行って、お昼まで本読んでもいい?」
お「いいともさ。お昼ごはんを食べたら、日本の南京統治について話をしようね」

ま「お昼ご飯はなあに・・・」
お「まあ、この子ったら」
(つづく)

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このページは、宝徳 健が2011年7月18日 05:14に書いたブログ記事です。

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