親父の親父の物語

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 私の本籍は、福井県丹生郡越前町玉川というど田舎です。2回しか行ったことがありません。一回目は、若いころ「どんなところだろう」と思って訪ねてみたとき、二回目は、親族の法事のときです。親戚筋に当たる旅館があるので、そこに泊まりました。我が家の資産はもう何もありません。その地域では相当な著名人だったようです。戦後、親父が玉川に行くと、「この一帯はすべてあんたのものやで」と言われたそうですが、親父は何のことかわからず、結局戦後のどさくさで我が家はすべてを失ってしまったそうです。
 驚いたことがありました、その法事の帰りの際、バス停に一族がいると、まったく知らないおばあさんが、私のおじをみて「あんた、宝徳やろう。宝徳の顔や」とおっしゃいました。さて、その地域で勢力を誇っていた宝徳家が没落します。

 では、前回の続きです。 私の親父が自分の父(私の祖父)について書いたものです。※は私のコメントです。
 上級学校は、農林省水産講習所(現・東京水産大学)を目指していたが、北海道との間を交易していた船が一度に4隻も沈んでしまい、寳德家は没落?したので進学(受験)ができなくなり、失望のあまり寄宿舎の塀を乗り越えて脱走?したこともたったと聞いています。

 父の書架には「高等文官(高文)試験問題集」(国家公務員上級試験)がずらりと並んでいました。上級学校に行けないための勉強だったのです。いまの世は学歴社会といいますが、学歴偏重は当時のほうがひどかったのです。中等学校(5年生―中・商・工・農・商船など)を卒(へ)た者と、高等・専門学校、大学を出た者との差は、いまよりひどいものがありました。

 高文の目的を果たすことはできませんでしたが、子供の眼から見ても頭のキレる男でした。前頁(※7月6日の記事)の経歴に、朝鮮総督府咸鏡南道技手とありますが、ここまでくるのには大変な努力がいります。かみ砕いていいますと、地方の役人が中央官庁のお役人になったということです。

 でも、中卒では技師になれないのです。歴然とした学歴偏重がありました。咸南魚聯に転じたのは、佳男(※私の父)を上級学校に行かせるための布石(恩給がつき、魚聯からの報酬もある)だったと聞きますが、別の理由もあったのではないでしょうか?

つづく

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このページは、宝徳 健が2011年7月 9日 03:06に書いたブログ記事です。

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