母の命日と創立記念日

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 今日7月10日は母の命日です。そしてわが社の創立記念日です。
 母は平成7年7月10日に亡くなりました。享年62歳です。神戸震災の年です。もう16年にもなるのですね。自分の母親がこの世からいなくなるなんて、私は、はじめ信じられませんでした。16年前ですから、36歳。息子が2歳でした。

 息子は、おばあちゃんが死んだという事実は、まったく理解できず、お通夜・葬儀では、笑いながら走りまくっていました。

 息子が生れたときの母の喜びようは今でも覚えています。初めて会ったときは、息子の寝ている横に椅子をおいて(母は足も悪かったので、下に座れない)、ずっと観ていたことを覚えています。

 その後も、息子を連れて遊びに行くと、喜びました。もう、かなり体が弱っていたので、昼間でも寝ていることが多くなりました(ぎりぎりまでは、どんなに痛くても、昼間寝るような人ではありませんでした)。寝ているところに、息子が遊びに行くので、「○○、おばあちゃん、しんどいから、こっちにおいで」というと、母が「いいよ、いいよ。気がまぎれる。かわいいねえ」と言いました。生きていれば成長した息子の姿をどれほど喜んでくれることでしょうか。

 30代前半から病に冒され、相当な痛みと付き合う一生でした。でも、家事を手伝おうとすると「これは、私の仕事! あなたは他にやることがあるでしょう!」と断固拒否していました。「痛い」という言葉もめったに聞いたことはありません。だいたい、愚痴というものはほとんど言わない人でした。それどころか「私が、みんなの病気を全部引き受けているから、みんなは大丈夫よ」と。

 特に男の私には、台所仕事はさせませんでしたが、もう、晩年のかなり弱っているときに、一度だけ、晩ご飯を、私が作ったことがありました。痛さから、食欲がほとんど「ゼロ」になってしまった母になんとか、食べさせたかったからです。 すると、食欲がないくせに、私が作ったということで、無理して全部食べて、親父に「ほうら、健の作ったご飯、おいしいから全部食べたよ」と・・・。

 子供の頃は「いったいお母さんは、いつ寝ているのだろうか」と思っていました。昔のすばらしい日本と言うのは、女性が支えていたのですね。

 さて、わが社は10年。いろんなものをぶち壊してしまった10年でした。母に怒られます。このままではいけませんし、前に進む材料はたくさん揃ってきました。

3年間でこの10年で悪かったことを精算する(56歳)。
この3年間を含む5年間で新しいスタイルを構築する(58歳)
その後5年間でそのスタイルを成長させる(63歳)
その後5年間でそのスタイルを発展(周辺への拡大・社会貢献を含めて)する(68歳)
その後10年間でそのスタイルを別の人に承継する(78歳)
その後30年間の余生を楽しむ(108歳)

 またいろいろな人に笑われそうですが、目標です。

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このページは、宝徳 健が2011年7月10日 04:42に書いたブログ記事です。

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