親父の親父の物語

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 私の親父(佳男)が、自分の親父(私の祖父:義一)のことをまとめて書いたものを紹介しています。これは、親族一家にひとつ、配られました。配ったのは、平成15年6月7日です。この日は、関西方面の親族の「寳德義一生誕百年祭」でした。

 続きを書きます。今回は、親父(佳男)が自分のことを語ります。

 そして、前回と前々回にお約束した、爺さんの弓の写真も掲載します。くだんの塀も出ています。
 佳男は、咸興公立中学校(咸中)の受験に落ちました。このとき叱られたのはお母さんです。当時の中等学校(5年制―中・商・工・農・水産・商船など)の受験は、学科のほか体力検定みたいなものがあり、走・投・跳・鉄棒・・・がありました。ボクが得意なのは「走」だけで、手榴弾投げは、3mも跳ばない。低鉄棒の逆上がりができない、懸垂はゼロ。とても軍国少年とはいえない体力でした。このあと口頭試問(面接)もある。

 それに極端に身体が弱かった。偏食が激しく、いつも異から生つばがあがってくる。ケガをすると、すぐリンパ腺が赤く腫れる、といったように病気のデパートでした。「それを癒してやるのは母親の責任だ。だから佳男は咸中にすべったのだ」と、お母さんが叱られるのです。

 戦後30年経って咸興小学校の学年会を立ち上げたとき、担任だった奥津先生が「君がなんで咸中にすべったのか分からない」と言っておられました。

(つづく:さて、佳男の運命やいかに。小学浪人か?)
自宅の庭で弓の練習をする祖父。文句を言って建てさせた塀もあります。

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このページは、宝徳 健が2011年7月16日 04:06に書いたブログ記事です。

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