母の誕生日

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 今日は記事が多くてすみません。てみじかに本日最後の記事を書きます。

 毎年書いていますので、もうあまり書くことがないのですが、私は一度だけ、母の誕生日を忘れたことがありました。そんなことで、とやかく言う人ではないのですが、その年の事は今でもとても悔いています。

 
 全身リューマチで、三十代半ばから入退院を繰り返し、ほとんどが人工関節でした。毎日激痛との戦いですが、めったなことでは「痛い」という言葉を言わない 人でした。苦しい顔も極力見せないようにしていました。いつ寝て、いつ起きているか分からない人でした。何が幸せなんだろうと思い、子供の頃一度聞いたこ とがありました。「あなたたちよ」という言葉でした。

 自分の力を自分の為ではなく、他人のために使い切る。まさに武士道そのものの人でした。平成七年七月十日に亡くなった後(享年六十二歳)、遺品整理をしていたら、ほとんど自分の物は出てきませんでした。私は、母が使っていた、小さな湯飲み茶わんをひとつもらいました。

  姉に男の子が生まれた時(甥)、母が姉に言いました。「男の子はね、その日のうちに生きて帰ってくればそれでいいのよ」。私に対する教育方針だったので しょう。子供の頃喧嘩で負けて帰って来たら、勝つまで家に入れてくれませんでした。今でも耳に残っています。「お母さんは、そんな弱い子を産んだ覚えはあ りません。もう一度行ってらっしゃい。勝つまで帰ってきてはダメです」。中学の頃、喧嘩をして原型がわからないくらい、自分の顔がはれたことがありまし た。今の言葉でいうと、「ボコボコ」にされました。家に帰ったら「どうしたの、その顔?」「階段で、転んだ」「ふ~ん」。んなわけありません。心の中では 心配していたのでしょう。でも、私が言うまで、絶対に聞くことはありませんでした。

 進学や就職など人生の決断の時も、一度も口を挿んだことはありません。いつもとても喜んでくれました。独立したときは、もういませんでした。
 
 もう少し生きていて欲しかったな。孫の成長をどれだけ喜んでくれることか。

 お母さん、誕生日おめでとう。私を産んでくれてありがとう。

本当の 強さと優しさ 兼ね備えた 生きる姿を 吾も学ばん

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このページは、宝徳 健が2012年9月12日 09:12に書いたブログ記事です。

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