真実の日清戦争

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 日清戦争は我が國の侵略戦争だという人がいますが、まったく違います。

 また、清國は、列強によってくずされたと思っている人が多いのですが、これまた、まったく違います。

 おっと、その前に、アメリカの門戸開放宣言は高校時代に習いましたね。アメリカ國務長官ジョン・ヘインによるものです。アメリカは、元々モンロー宣言で、「アメリカも他國を干渉しないから、他國もアメリカに干渉するな」という孤立宣言を出していました。その間に、眠れるブタである、支那を、欧州各國が侵食していき焦って、門戸開放宣言を出しました。その後、残虐なるハワイ・フィリピン支配がはじまります。
 ということで、少し日清戦争に至るまでの清を見ていきましょう。

 アヘン戦争(1840~1842年)、アロー号事件(1856~1860年)をきっかけに西洋列強の支那侵略が開始されました。前述しましたが、これが清衰亡の原因と言われていますが、違います。

 例えば太平天國の乱という世界史史上最大の内戦があります。太平天國とは、洪秀全という男が組織したキリスト教の集まりが作った自治機構です。太平天國は異民族支配と先生王朝体制に真っ向から挑戦しました。一時期太平天國軍は、清の主要地域の半分を支配していました。

 それでも清が持ちこたえられたのは、英國やフランスなどの外國軍の力を借り近代兵器で太平天國軍を制圧したからです。つまり、最初から外國に蹂躙されていたのではなく、支援を受ける形で王朝を維持していました。

 清が崩れて行ったのは、内部事情です。支那には、華夷秩序という伝統的世界観があります。支那にかかっては、世界各國は、みな支那に朝貢すべき野蛮人だという思想です。この思想が、清を滅ぼしました。

 内部の乱れが、アヘン戦争やアロー号事件で一気に吹き出し、華夷秩序の放棄を迫られました。

 なんとなんと、清には、それまで外務省というものがありませんでした。華夷秩序の下では、他國と交渉など必要ないからです。

 ようやく1861年に外務省が出来ました。

 でも、皮肉にもこの外務省設立が、女真族(清の一族)支配から漢民族支配への転換期となってしまいました。 つづく
 

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このページは、宝徳 健が2013年4月28日 04:20に書いたブログ記事です。

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