再 未来日本昔話

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 2010年1月31日掲載分です。
 時は西暦2100年。日本の国は、今のようなことをやっているので、つぶれてしまいました。おばあちゃんとまさる君が日本の正しい歴史を話し合います。まさる君は10歳です。

「おばあちゃん、今日から日本の植民地支配の話しだね」
「そうね。真実を話そうね。でも、おばあちゃんも日本人だから、不公平があってはいけないので、当時の作家で台湾生れの黄文雄(こう・ぶんゆう)さんという人が書いたものを参考にしようね。台湾生れの人だって、こういう風に言っているんだよ」
「うん。楽しみ」

「俗に言う日本の三代植民地といえば、台湾、朝鮮、満州だとよく言われているわ。まずは、台湾ね」
「うん」
「日 清戦争の結果、下関条約の規定により、台湾を日本に永久割譲したの。でも、当時の大日本帝国憲法には、領土変更の明記がなかったので、台湾の地位、経営を めぐって、多くの論争も残ったのよ。当時日本政府に来ていた、英国の顧問は台湾を英国型の植民地に、フランスの顧問はフランス型の植民地にすることをすす めたの。でもね、原敬という人は、台湾は植民地ではなく、四国や九州のように内地の延長と見るべきだと主張したの」

「よかった、あんなひどい欧州型にはしなかったんだね」
「日本人がそんなことをするものかね。台湾は多言語、多民族、多文化社会だったの。清朝の時代まで、台湾は三分の二を占める土地には政治がはいってなかった原住民だったんだけど、有史以来はじめて同一政権下に統治されたのは、日本時代の第五総督佐久間左馬太大将が、山岳民族を制服してからなのよ。台湾はもとも と匪賊社会だったので、警察が各地に跋扈する武装勢力に代わって社会を守る力になってから、台湾ははじめて近代社会に入ったのよ。台湾近代社会の成立は日本時代に入って、治山治水、ダム建設、上下水道の整備、鉄道・道路、港湾の建設、医療永世、近代教育、近代社会諸制度の確立によって達成されたのよ」
「全然、植民地じゃないじゃん」

「結論からいうと、日本は台湾も朝鮮も満州も植民地にした歴史はないわ。搾取、略奪などの史実をいくら探しても出てこないの」
「なんで、じゃあ、植民地にしてごめんなさい、なんて謝っていたの?」
「誤っ た教育の結果さ。例えば、台湾総督府の台湾経営については、最初の10年間の歳出は、ほとんど中央政府からの補填で、明治二十九年度の一人当たりの台湾人の歳出は三円十六銭だったのに対して、内地では二円二十七銭だったのよ。日本人に対する歳出のほうが少なかったの。税金も台湾では5%だったのに、日本国内では、25・5%だったの。」

「じゃあ、日本人がお金を出して、台湾を近代化したの?」
「そうよ。これが植民地っていえる?  朝鮮にはもっとお金を出していたの。これは明日話そうね。台湾の人は日本が大好きでね。戦後も日本人を尊敬していたの。でも、日本が中国ばかりに目を向 けるから、だんだん台湾人はアメリカよりになってしまったの。それに、当時のNHKという国営放送がね、戦前の日本は駄目だったということを決め付けて、 台湾の人に、日本の悪さを言ってもらおうというような取材をしたの。結局何も出てこないから、捏造した記事になったけど」
「それでも、国営放送?」

「どうだい、まさる。日本は悪い国かい?」
「全然違う。おばあちゃん、明日は朝鮮のことを話したい」
「はいはい、そうしよう。じゃあ、おやつにしようか。今日はね、東京名物の言問団子だよ。言問団子は、植木師の外山佐吉さんがが明治4年につくったものなの。」
「すっごい歴史があるんだね。日本がつぶれても、日本人が力強く日本の文化が残っているんだね。すごい力だね」
「そうよ。おいしいよ。食べてごらん」
「いっただきま~す。おいしい~」

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このページは、宝徳 健が2013年5月23日 07:03に書いたブログ記事です。

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