玄鳥去

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 昨日から、七十二候 四十五候 白露 末候 「玄鳥去」です。「つばめさる」と讀みます。

 つばめといふと、子供の頃讀んだ、「幸福な王子」の話を思い出します。
 いろいろな寳石で身をまとつた王子の像がありました。あちらこちらを飛び回つて情報を持つてゐるつばめに、貧しい人のために自分の体の寳石や金箔を分け與 へるといふ物語です。最後は、南へわたる時期を逃したつばめの死骸とボロボロになつた王子の像が残されます。王子の像は撤去され、鉛の心臓と燕の死骸は捨 てられてしまひます。神が天使に、この世の中で尊いものを持つて來いと命じます。

 ものすごく違和感がある物語ですね。作者のひねくれた心を感じます。もしかしたら、何かのアンチテーゼを作者はしたかつたのかもしれません。まず、王子の像の心臓がなぜ鉛なのか。それに、ある特定の人間が銅像になるなど、それは「ウシハク」の世界です。

  私は子供の頃、これを讀んで、とても違和感がありました。つまり、貧乏な人がたくさんゐるといふことは、爲政者が惡いといふことです。そんなに貧乏な人が たくさんいるのに、なぜ、そんなに金ピカ寳石の銅像があるのだらうか?そんな銅像を作る前に人々にその寳を分け與へたらいいのに。と思いました。

 我が國の仁德天皇の「民のかまど」とは全く違ひます(士魂商才第七十八号「子供と一緒に考へる修身授業」参照)。

 いつたい、このつばめと王子は何をあらはしてゐるのでせうか? カトリック教會主義の考へることは皆目検討がつきません。

 我が國では、縁起の良い鳥とされてゐます。燕は稲作において、害虫を食べてくれます。江戸時代、燕の糞は、雑草の駆除に役立つとされてゐました。「燕の巣がある家は安全」とまでいはれてゐました。

 そんな縁起のよい鳥が越冬のために南へ去つていくことの哀愁を、私たちの先輩は感じてゐたのでせう。

 さういへば、燕を見なくなりました。さういへば、燕の巣は、邪魔だと考へるやうになりました。

 敗戰後の私たちは、あの野蛮なアングロサクソンのやうにならうとしてゐるのでせうか?

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このページは、宝徳 健が2014年9月19日 03:18に書いたブログ記事です。

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