母の命日と創立記念日(皇紀弍千六百七十五年七月十日)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 支那の株が下落に歯止めがかかりません。いよいよ來きましたね。怖いのは、追い詰められた支那は何をしでかすかわからないことです。支那が、國内の株価問題から人民の目を逸らすために、ギリシャ問題をどう扱うかがひとつの焦點です。バルカン半島はいつの時代も恐ろしい。

 さて、今日は、母の命日です。平成七年七月十日 享年六十二歳でした。
 約三十年、ずつと病氣で入退院を繰り返してきました。關節はほとんどすべてが人工關節でした。

 息子が生まれ、二歳の時です。實家に遊びに行きました。母は、夜中にトイレに行こうとして、ベッドから滑り落ち、足を骨折してしまひました。父が「必ず治してやるから心配するな」と叫んだ聲が今でも耳に殘ります。

 私が車を出し、病院へ。入院しましたが、容態が惡化し意識不明になり、ICUに入りました。父と二人で、交替で、ICUの外のソファで寢泊まりする日々が續きました。

 父が寢泊まりしてゐる日に亡くなりました。

 持病はあつたものの、なぜ、骨折で死ななければならないか。妹は納得がいきません。

  その前に、最後に病室で意識があつたとき(つまり、母の意識がある最後)、私と妹が丁度見まいに訪れたときです。母は、今にも意識を失ひさうな表情で、私 たちが來るのを我慢して待つてゐました。いくと手招きします。「忙しいのに、いつも來てくれてごめんね」。母はいつも、自分のことより人の心配です。昭和 一桁の人間の生き樣ですね。

 「そんなこと、氣にせんでいいけん。まずは、自分のことば考へんね!」と云ひながら、醫者を探しました。 「なんですか?この容態は!!!」 「〇〇を投藥すれば樂になります」「なぜ、それをしてくれないんですか!!!」「家族の同意が必要ですので」。能面の やうなつらをした醫者が事務的に答へました。

 あのとき、私は、よく我慢したものです。

 でも、投藥をしても樂にならないどころか、意識不明になり、ICUに入つて、そのまま歸へらない人になりました。

 亡くなつてから、急いで霊安室に行きました。担当醫師は、出てこないどころか、傅達があつただけです(その後も一度も顔を見てゐません)。「解剖してもいですか?」

 妹は、悔しくて悔しくて、その後、何度も手紙を書きました。「訴へたりはしないから、眞想を聞かせてくれ」と。病院からの手紙は判で押したように「醫療ミスではない」でした。都立大塚病院です。

 このことがトラウマになつて、私の醫療不信はいまだに續いてゐます(一部の醫師を除いて)。

 母の葬式には、出光興産のお偉いさんがたくさん來てくださいました。私は、母がかつて出光興産にいたことを云つてゐませんでしたので、上司はびつくりしてゐました。

 私の母は、日章丸事件の時に、日章丸に暗号電文を打ち続けたOLだつたのです。

 さて、我社の十四周年です。

 でもなあ、なかなか親には勝てないや。

 さてと、十五年目のスタートを切りますか。

生き樣と 死に樣魅せる 父と母 己は何を 成し遂げてゐる

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/6070

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2015年7月10日 07:36に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「本をお譲りします(皇紀弐千六百七十五年七月九日 弐)」です。

次のブログ記事は「」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。