档案(皇紀弐千六百七十五年七月十八日)

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 まあ、くだらないニュースがTVのトップを飾るものです。オリンピックの競技場のことぐらいで、首相の手を煩わせるなよ。メディアは「國民から批判の多かった」と云ひます。へっ?私は批判をしてゐませんし、そんな批判をしてゐる人を私の周りでは見たことがありません。メディアが批判しているのを、メディアが自分たちが云つてゐるのではなく、國民が云つてゐることにしてゐるだけでせう? そして、その報道を聞いたお馬鹿な臣民が騙されてゐるだけでせう?

 こんなくだらないことが・・・。森も逃げるなよ。

 まあ、このぐらいにしておきませう。

 本題に入ります。私は、昭和五十八年(1983年)2月に、親友のYTJと個人旅行として支那に1か月弱行きました。
 當時はまだ、支那への個人旅行は認められておらず、日本國内では、支那のビザはとれませんでした。しかたなく、香港に飛び、そこでビザを手に入れ、電車で広州に入りました。

 「暗い、くさい、くぞまずい」。YTJと一緒に作った 支那3Kです。

 YTJは、學生時代にほぼ全世界を一人で旅をしてゐる強者です。そのYTJが云ひました。「宝徳、俺は世界中を回つて來たけど、いろんな國で味わつてきたトラブルが、この支那一國で全部味わへる」と。3Kどころではありません。今は、北京・上海はずいぶん變はつたみたいですが、ほんの少し都市を離れれば、本質的に何も變はつて無いと、私は確信を持つて云ふことができます。

 とはいつても、その當時は、趙紫陽・胡耀邦の頃です。親日でした。

 人民はとても親切でした(日本人だとわかると。最初は香港人と思われ、ぞんざいな扱ひを受けます)。

 四安(かつての長安)での出來事です。着いたばかりで、ホテルの場所がわかりません。ホテルの名前は人民大厦(れんみんたーしゃー)。地図を広げて道を確認してゐると、小さな男の子を連れたお母さんが、どこに行きたいのかと聞いてきます(もちろん支那語はわかりません。お母さんも日本語がわかりません。支那は内地に入ると英語はまず通じません)。

 地図を見せると、連れて行つてくれました。「日本人も見習わないとなー」とYTJと話しました。

 ホテルに着きました。お禮に、袋に入つたキャンディーを男の子にあげようとしました。

 優しかつたお母さんが、烈火のごとく怒り出しました。

 私達には意味がわかりません。その後北京に行つたときに會つた商社マンに聞いて得心しました。支那人には、ひとり一人「档案(とうあん)」といふ成績表があつて、逐一行状が記録されるさうです。そこに惡く書かれると、もう目も當てられない悲惨な状況に追い込まれます

 外國人から物をもらうと、その档案に記録され不利になるさうです。

 キャンディーどころだけではありません。なぜ、支那經濟があんなにもつか。例えば、工場や飛行場を作らうとします。支那共産黨は、人民の意志など無視して土地を収用します。さからへば、档案に記録されます。こんなことは日常茶飯事です。

 おーーーーい、日本國内の、人權派と呼ばれるお馬鹿さんたちよーーーーー。支那には何もいはないのかーーーーー?それとも支那から・・・・・。

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このページは、宝徳 健が2015年7月18日 06:04に書いたブログ記事です。

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