平和を語る資格(皇紀弐千六百七十五年九月三日)

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 昨日の産經新聞は注目する記事がふたつありました。石平さんと曽野綾子さんの記事です。

 一邊で二つとも紹介できないので、まずは、石平さんの記事を紹介します。ったく、宮崎駿の映画なんて觀るもんではありません。前から思つてゐたことですが。彼の人間性など皆無に等しい。恥を知れ。では、紹介します。
日本のリベラルは死んだ
理性なき個人攻撃
 8月30日、国会議事堂前の安保法案抗議集会で、山口二郎法政大学教授は安倍晋三首相に対して「お前は人間じゃない」と暴言を吐いた。時代劇の決めぜりふからの借用らしいが、現代の人の感覚からすれば、それは明らかに安倍晋三という一個人に対する言葉の暴力である。

 反安保法案運動が始まって以来、映画監督の宮崎駿氏は安倍首相のことを「愚劣」と罵倒し、日本学術会議前会長で専修大学教授の広瀬清吾氏は、7月末に安倍首相のことについて「バカか嘘つきか」の二者択一の手法でののしった。そして学生団体「SEAL's(シールズ)」の中核メンバーは、8月の連合主催の国会前での安保集会で「バカか、お前は」と罵声を安倍首相に堂々と浴びせた。

 こうした中で反安保法案運動はそのしかるべき趣旨から逸脱して理性と節度を失い、単なる安倍首相に対する「怨念の個人攻撃」へと変質した。「平和運動」はもはやその名に値しない言葉の暴力を平気で振る舞うような人間たちに、「平和」を語る資格がどこにあるのか。

人権感覚のまひ
 さらに問題なのは、前述のような発言に対し、反安保法案運動の陣営から内部批判も自己反省もいっさい聞こえてこないことだ、日本の「保守」とは対極の「リベラル」を代表するような新聞などもそれをいっさい問題視していない。このような事態はむしろ、日本のリベラル全体において基本的な人権感覚がまひしていることを示している。言葉の暴力を容認するような「リベラル」はリベラリズムといえるのか。

 「リベラリズム」はすでに死んだ。

「天安門での誇り」
 今から26年前、私の世代の多くの中国人青年が北京の天安門広場でそれこそ命がけの民主化運動を展開した。しかしわれわれは、本物の独裁者の鄧小平に対しても「お前は人間じゃない」といった暴言は吐いたことがない。われわれはただ、民主化の理念を訴えたかっただけだった。だから、民主化運動が鄧小平の解放軍に鎮圧されたとしても、われわれには誇りが残った。

 民主主義社会の中で「鎮圧」される心配のない日本の反安保法案運動に参加している皆さんも、このような誇りを持ってしかるべきではないだろうか。

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このページは、宝徳 健が2015年9月 3日 07:10に書いたブログ記事です。

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