大和言葉 十七(皇紀弐千六百七十五年十一月三日 明治節 四)

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 大和言葉の本を本屋さんでいろいろみました。いいことですね。かういふ本來の我が國が見直されるのは。決して懐古主義ではありません。正しいものへの囘歸です。歴史主義 DNA主義とでも云ふのでせうか。

 ただ、どの大和言葉の本も現代假名遣ひで書いてあります。不思議でなりません。大和言葉は、間違つた日本語である現代假名遣ひでは、表現できないはずです。どの本もこれに挑戰してゐません。

 數日前の産經新聞の一面コラムに乘つてゐた内容です。
 ある學生が、三島由紀夫が讀みたいといふので本を貸したら、次の日(かどうか)に、讀めないと返してきたさうです。三島由紀夫の歴史的假名遣ひの本だつたからです。それも東大生だつたさうです。

 三島由紀夫の作品は、歴史的假名遣ひなんです。それを現代假名遣ひで書いてしまつたら、もうそれは、三島由紀夫の作品ではありません。何を勘違ひしてゐるのでせうか?

 歴史的假名遣ひであつた、その本が惡いのではなく、歴史的假名遣ひを讀めないその學生が惡いのです。荷物が重たいのではなく、荷物を持つ力が弱い。

 私は、小學校四年生の時、父の本棚をなにげなくみてゐると、三島由紀夫の 潮騒が目につきました。手にとつて讀みはじめました。少しエッチなのでドキドキしたのを覚へてゐます。もちろん歴史的假名遣ひです。漢字も繁體字でした。抵抗なく讀めました。


讀み:古典を讀む、漢文を讀む(私はまだこれはできません)
書き:手紙が書ける、和歌が詠める
そろばん:數學にたけてゐる(江戸時代の庶民の家には塵劫記といふ數學の専門書が一家に一冊あり、大人はみんなそれが解けたさうです)。

 この基本をおろそかにして、過つた學校敎育で間違つたことばかり覺へた人間が大人になる。そして、社會的地位を占めていく。最惡です。だから、小學校から英語などといふ、「世にも恐ろしい物語」が始まるのです。

 大和言葉は、歴史的假名遣ひで書きませうね。

 けふ(今日)は、戀(恋)に關する大和言葉です。

「好きな人いるの?」
 味気ないですね(笑)。

「心を寄せる方はいらっしゃるの?」

 どうですか?心が大きく動いてゐる感じがしませんか?


 私は、若いとき、硬派を氣どつてゐました。ずいぶん損をしたものです。

 でも、戀と云ふ言葉には甘いものを感じてゐました。島崎藤村の初戀の詩を知つたのはいつのころだっただらうか?中學生のころだと記憶してゐます。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の實に
人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき戀の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ


 これ、暗唱していたのですよ~。歌も歌へました~。恥ずかし~(笑)。でも、硬派を氣取つてゐたので、大學を卒業するまで戀愛歴ゼロ~。ばっかじゃないの~。

 でも、この詩を現代假名遣ひにしてしまつたらどうですか?味氣ないでせう?

 長くなりましたから、戀の大和言葉のつづきはまた次囘に。

心寄せ 胸にとどまる ひとときの あはい(淡い)思ひの あの人いづこ

 戀愛はしませんでしたが、人はたくさん好きになりました。私のマドンナたちはいまどこで何をしてゐるんだらう。

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このページは、宝徳 健が2015年11月 3日 04:21に書いたブログ記事です。

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