これはすごい(皇紀弐千六百七十五年十一月二十七日)

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 髙校時代も知つてはゐましたし、何度か敎科書で讀んだことはありました。でも、はつきりと意識したのは大學生になつてからです。

 小林秀雄。大學生になつて、きちんと讀んだとき、「文章と云ふのは、これほど人の心を揺さぶり、人の心を巻き込むのもなのか」と思ひました。格が違ひました。

 そして、來ました。着きました。このすごい本が。

 「小林秀雄後の二十一章」小川榮太郎 幻冬社

 私が、歴史的假名遣ひと繁體字を使ふやうになつたのは、小川榮太郎氏と、長谷川三千子先生の文章に触れてからです。「ああ、これいい」「ああ、これが本當の日本語だ」と思つたからです。

 素直に表現できるのです。自分が。そして、言葉の意味(言霊?)が理解できるのです。

 さつそくこの本を紐解きました。

 引き込まれます。まるで、學生時代に小林秀雄を讀んだときと同じ感覺です。

 なんだらう、この感動は。なんだらう、この感激は。なんだらう、この素直な氣持ちは。なんだらう、なんだらう。居ても立つてもいられません。走り出したくなる感動です。

 こんなすごい人がゐたのか。昭和四十二年五月生まれです。四十八歳。

 くやしいなあ。私とは違ふ崇高な生き方をしてきたのでせう。結果としての人生が違ふ。くやしい。

 まだ、間に合ふかしら。

人に學び 生き方學び 生き方を 創る行ひ それが人生

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このページは、宝徳 健が2015年11月27日 06:47に書いたブログ記事です。

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