大和言葉廿八(皇紀弐千六百七十五年十一月二十八日 弐)

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 タイトルの「廿」といふ字は、前から知つてゐました。使つてはゐませんでした。

 大阪事務所の近くに行きつけの焼き鳥屋さんがあります。そこで知り合つた、とても素敵な年配の方が書いている文章を拝見したときに、この字が使はれてゐました。「なるほどかういふ風に使ふのか」。

 良い癖なのか惡い癖なのかわかりませんが、私は覺へたことをすぐに使ひたがります。「學」んだことを「習」ふ。つまり學習です。

 歴史的假名遣ひやこのやうな日本語を學習してゐると、日本語の機能性、柔軟性を感じることができます。それはさうですね。何万語もあるのですから。アルファベットの二十六文字とはレベルが格段に違ひます。
 それを型にはめやうとしたのが、當用漢字と現代假名遣ひです。なんせ、日本語を潰すために作られたものなのですから(福田恒存先生のご著書を讀めばよくわかります)。

 福田先生は、この國語の囘復に「ひとかたならぬ」ご盡力をなさいました。

 今日の大和言葉は、「ひとかたならぬ」です。

 手紙に書くときなどは「ひとかたならぬ、ご盡力をいただきまして厚くお禮申し上げます」と使ひます。

 「ひとかた」とは、普通の程度といふ意味です。ですから「ひとかたならぬ」は、並一通りではないといふことになります。お世話になつたり、援助をしてもらったり、力を注いでもらつたりした相手に感謝の氣持ちを傳へるときに用ひます。

 さういへば、二日間手紙を書いてゐません。今日は書きます。

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このページは、宝徳 健が2015年11月28日 04:21に書いたブログ記事です。

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