神武天皇崩御二千六百年(皇紀弐千六百七十五年十月二十九日 弐)

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 平成二十八年四月三日 橿原神宮で、神武天皇崩御 二千六百年祭が催されます。當日は無理だとしても絶對に行きます。「かしはらじんぐう」と讀みます。神武天皇の名前や橿原神宮を知らない人がゐる・・・・・(涙)。

 神武天皇 カムヤマトイハレビコノミコトについて、私の著作「どの本よりわかりやすい古事記」から引用して紹介してゐます。つづきです。前囘は、神武天皇がお生まれになつたところまででした。
 ニニギノミコトの天孫降臨以来九州に住みついた天つ神ですが、九州は、たくさんの部族國家があつて、絶えず爭ひがあります。その爭ひに巻き込まれていゐては、政治もできません。神武天皇(以下、會話ではジ)がお兄さん(以下、會話ではニイ)と話し合ひました。(九州ですから博多弁で)

ジ「お兄ちゃん、どっか、住みやすうて、政治しやすいとこないとかいな?」ニイ「ほんなごつ、ここは住みにくか」


ジ「どげんや、東の方ば、行ってみんや?」


ニイ「そうっちゃ、東の方にくさ、よか土地があるて、誰かがいいよったばい」


ジ「そうっちゃ、そうっちゃ。でかけるったい」


ニイ「それしかなかけんね」

ということで、一族を連れて大移動をしました。

日向(宮崎県)を離れて、筑前(福岡)向かいました。途中、豐の國(豐前、豊後:大分県)の宇佐に到着しました。八幡宮の総本山宇佐八幡宮があるところです。

そこで、いろいろとご馳走になって、筑前に向かいました。筑前で一年ほど過ごしました。この筑前は、今の、遠賀郡芦屋町を示します。私は、一時期ここで暮らしました。ひとりで壁に向かってキャッチボールをしていたとき、ボールが變なところにはねて、家の近くの林に入っていきました。

誰も通らないようなところです。すると神武天皇のお墓のようなものがあったのをはっきりと覺へてゐます。お墓ではなく碑だったんですね。

そこで力を蓄えて、瀬戸内海を旅して安芸(広島)に行きます。ここでは七年間過ごしました。そして、吉備(岡山)で八年間。食べ物のおいしいところばかりですね。神武天皇は食いしん坊だったのかな? つづく

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このページは、宝徳 健が2015年10月29日 04:01に書いたブログ記事です。

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