大和言葉 十四(皇紀弐千六百七十五年十月二十九日 參)

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 ふたつ前の記事で、「たわわ」といふ大和言葉を使ひました。この言葉もきれいですね~。我が日本の先輩たちは、この實りの秋にふさはしい言葉を殘してくださいました。本來の假名遣ひでは「たはは」なのですが、う~ん、みなさんのために「たわわ」にしておきますか~。
 「たわわ(たはは)」 は、たくさんなった實の重みで茎や枝が 「しなる」 様子や「たわむ」 樣子から生まれた言葉で、穀物や果樹が 「豐作」 である表現です。言葉からその光景がイメージできますよね。

「木にいつぱい實なる」 「たくさん實る」でもよいのですが、「たわわ(たはは)に實る」のはうが、情緒があります。

「今年も身知らずの柿が、枝もたわわ(たはは)に實りました」 といふやうに使ひます。

 「身知らず柿」 の名前の由來は、柿の木が重みで折れてしまうほど、實をたわわ(たはは)につけることから名付けられたという説、と、あまりにも美味しい柿なので身の程知らずにたくさん食べてしまうことが由來とされる説、と、昔々身知らず柿を誰だっけな偉い人に献上した所、「未だかかる美味な柿を見知らず」(こんなにも美味しい柿を私はいまだかつて知らなかった) とその偉い人が絶賛し、氣に入つて名付けたといふ説などがあります。

「實りの豐かさ」 に思ひを込めた大和言葉 「たわわ(たはは)に實る」。美しい言葉です。

 秋の實りの歌ではありませんが、「たはは」を使つた歌です。

橘の とをの橘 八つ代にも 吾(われ)は忘れじ この橘を

「橘の中でも枝もたはは(たわわ)になつた橘。今後何代經やうとも、いつまでも忘れないだらう。この橘を」

 万葉集にある元正天皇の御製です。奈良時代、女性であられた元正天皇が橘諸兄(たちばなのものろえ)宅に招かれて、橘諸兄に橘をかけて歌はれたものです。

 橘と云へば、京都御所に「右近の橘」があります。 「左近の櫻」「右近の橘です」。御所か~、しばらく行つてない。行きたいな~。

 橘が「生命の木」で、桜が「知恵の木」です。





 安らかに 民の暮らしを 見守るは 命の橘 智慧の櫻か

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このページは、宝徳 健が2015年10月29日 04:13に書いたブログ記事です。

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