治天の君 弐(皇紀弐千六百七十五年三月二十五日)

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 バカバカしい議論が國會で起きてゐます。どこかの女が書いたブログを取り上げ、國會を空転させる愚かなる國會議員。福沢諭吉先生の「一軆獨立して、一國獨立す」「國を支えて國を頼らず」をもう一度思ひだしませうよ。

 あの小さなちいさな國だつた我が國が、欧米やロシアとの信じられないやうな國力の差をはねのけて獨立を維持した明治の人たちのすさまじいまでのエネルギーを私たちは今一度學ぶ時にきてゐます。

 我が國の國體をしつかりと學びながら。

 我が國も、すんなりと國體を確立できたわけではありません。もちろん皇室も人間ですから樣々な混亂を經驗します。しかし、我が國がすごいのは、それを敎訓として、改善に改善を重ねてきたことです。欧米や支那では見たくない歴史は抹殺するのに比べてすごいと思ひませんか?

 治天の君をめぐる事件をみていきませう。
 治天の君を解説するときに、眞つ先に登場するのは白河上皇をおいて他にないでせう。

 このブログで「魚は頭から腐る」を検索してみてください。白河上皇の好色からの皇室の亂れがご理解いただけると思ひます。結果として現在でも皇室が最も恐れる崇德上皇事件につながります。

 白河上皇までは、摂関家による摂関政治が權力を握つてゐました。それを治天の君として取り上げたのが白河上皇です。

 摂関家と云ふのは、どちらかと云ふと天皇の母系です。その天皇の母系の權力を男系が奪つたのが院政です。

 天皇家の家督者が治天と呼ばれるやうになりました。複數の上皇が併存することもありましたが、治天の君となれるのは1人だけです。なので、治天の君の地位を巡つて上皇・天皇の闘争が起こつたこともありました。保元の亂などはその代表的な例です。

 さて、實は、足利尊氏の時代に、一度、南北朝が統一されてゐます。この事實を知る人は少ない。ここでも治天の君が絡みます。つづく

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このページは、宝徳 健が2016年3月25日 06:20に書いたブログ記事です。

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