大和言葉 2(皇紀弍千六百七十五年十月十二日 弍)

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 髙校生になつて、はじめて古文を習ひました。遅いですよね~。小學校一年生から、「古事記」「和歌」「古文」「數學」を敎へたら、我が國は、素晴らしく再生します。

 髙校ではじめて習つたとき、意味がさつぱりわかりませんでしたが、感覺としては「美しい言葉だなあ」でした。「春はあけぼの、やうやうしろくなりゆくやまぎは」「つれづれなるままにひぐらしすずりにむかひて」「しののめ」「あけぼの」「おぼろ」「かすみ」「みなも」「せせらぎ」・・・・、「たおやか」「おおらか」・・・・、少し表現するだけでも、今の間違へた殺伐とした日本語にはない美しさがあることがわかります。

 和歌もさつぱりでした。でも、言葉と同じで、「美しいなあ」と體の中に入つてきました。

 今の私たち日本人は、自分たちが言葉を破壊してゐるといふ、自覺症状がありません。さう、不感症なのです。

 また、どこからか聲が聞こえてきさうです。「今は、それが普通なんだから」。

 普通なのではありません。異常なマジョリティです。異常なマジョリティが「普通」と呼ばれることが今の我が國です。不感症から脱して、自覺症状ぐらいもちませう。
 「あらまし」。

 おおおそのところ、といふ意味です。「事件のあらまし」「あらましは、次の通りです」。

 徒然草「かねてのあらましみな違(たが)ひゆくかと思ふに」
 増鏡「ココロの限り仕うまつらむと、あらましおぼされつるに」

 きれいな言葉ですね~。

 動詞の「ある」に推定の助動詞「まし」がついて出來てゐます。

 また、客観的事實に反することを假想したり、不明の事實を推量したり、話し手の意思、希望などを表明する「・・・であらう」「・・・でありたい」と使はれることもあります。

梓弓 引きて許さず あらませば かかる戀(恋)には あはざらましを(万葉集)

 プロポーズをしたとき、女性からこんな歌を返されたら、喜びのあまり卒倒してしまひさうですね。私にちゃんと名乘つてくれたあなたの結婚を承諾しますといふ意味です。もし、梓弓といふ弓を引いてあなたを許さなかつたら、この戀は實らなかつただらう。が直接の表現です。きれいですね~。私たちは、平安時代から退化してゐることがわかります。

 小學校から英語敎育などといふ愚かな國家破壊行爲をするのではなく、古事記と古文と和歌と數學をやれば、我が國は再生します。

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このページは、宝徳 健が2015年10月12日 06:19に書いたブログ記事です。

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