治天の君 四(皇紀弐千六百七十六年三月二十七日)

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 敗戰後の敎育は、日本人として知つておかなければならないことを排除してしまひました。なので、年を重ねても「自分探し」をしなければならない人間が増えてしまひました。

 三大神勅も知らない日本人のなんと多いことか。敗戰前だと、小學生でも知つてゐることなのに。でも、それを嘆いても仕方がありません。このブログで少しずつ紹介していきますね。今は、治天の君を紹介してゐます。
 
 今日は鎌倉時代で治天の君について起きた事件です。
 後白河天皇の次に治天の君となつたのは、その孫、と鳥羽上皇でした。治承・元暦年間(1180年代)の治承・壽永の亂の結果、東國に鎌倉幕府が成立しました。しかし、治天の君として専制を指向する後鳥羽上皇には、幕府の存在が我慢ならないものでした。承久三年(1221年)まだ、源実朝が暗殺され將軍不在となつた幕府に、後鳥羽上皇が行ったのが、承久の亂です。

 これにより後鳥羽上皇及びその直系の上皇・天皇は追放され、後堀河天皇が即位しました。後堀河天皇の父 守貞親王が天皇家の家督者として、治天に就任することになりましたが、守貞親王は天皇の位についたことがありません。つまり、治天の君の資格要件を欠いていたのです。

 しかし、緊急事態であることが考慮され、特別に治天の君となり、後高倉院として院政を布きました。つまり、我が國の皇室(だけではなく)政治にとつて、治天の君の存在はなくてはならないものになつてゐたのです。

 イギリスなら、慣習は今でも殘すでせうね。我が國は、敗戰後、臣民が國をぶち壊してしまひました。國民主權、基本的人權といふ恐ろしい發想を受け入れてしまつて。

 でも、かういふ風に歴史を學ぶとすぐ頭に入るでせう? 子供にかういふ風に敎へると、すぐに覺へます。

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このページは、宝徳 健が2016年3月27日 04:24に書いたブログ記事です。

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