諦める①(皇紀弍千六百七十六年四月十日 四)

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 文藝春秋が司馬遼太郎のなんとかといふ本を出しました。まあ、私もかつては司馬遼太郎に騙されてゐましたから、偉さうに云へませんが、司馬遼太郎、山崎豊子、半藤一利、城山三郎、吉村昭あたりは、今讀むと背筋が寒くなります。阿川弘之の米内光正も。なんだか米内光正が偉く見えてきます(笑)。

 松本清張は共産主義者ですから論外ですが。

 手塚治虫もさうですね。ロボット漫画はいいのですが、あの歴史觀はいただけません。

 その手塚治虫の漫画に「ブッダ」があります。これは可もなく不可もなくかな~(笑)。
 よく佛像と云ふ言葉を使ひますが、正確には佛像とは、如来をさします。

 まあいいや。佛敎の言葉に四諦八正道(したいはっしょうどう)といふ言葉があります。

 今囘は、四諦を説明しませう(何囘かにわけて)。その次に八正道を解説します。

 苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つを四諦と云ひます。句集滅道(くしゅうめつどう)ですね。

 諦(たい)とは、悟りのことです。

 今日は「苦諦」です。

 苦諦とは、苦諦とは、人生は苦であるという真理です。四苦とか八苦にわかれます。よく「四苦八苦する」というのはここが語源です。

 四苦とは、生老病死です。

 ・生...生まれる苦しみ 

 ・老...老いる苦しみ

 ・病...病む苦しみ

 ・死...死ぬ苦しみ

 

 八苦とは、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごおんじょうく)この4つに生老病死を合わせた8つの苦しみです。

 ・愛別離苦...愛する人と別れなければならない苦しみ

 ・怨憎会苦...嫌な相手と合わなければならない苦しみ

 ・求不得苦...ほしいモノが得られない苦しみ

 ・五蘊盛苦...肉体と精神が生み出す苦しみ


 かういふ苦しみをきちんと受け止める。苦しみがあることを「あきらかにする」=「諦かにする」。「ああ、そうなんだと思ふから苦しいことを受け止めることができます。見極めると云ふ意味でもあります。つまびらかにするとも。

 だから、困難な出來事があつたときに、すぐに斷念するのではなく、その本質を「明らかに見極めて」から判断することが本來の意味の「諦める」なんですね~。

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このページは、宝徳 健が2016年4月10日 20:40に書いたブログ記事です。

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