十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年六月七日 參)

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 このブログは世界一我儘なブログです。自分の書きたいことを一切の遠慮なしに書いてゐます。でも、追求するテーマは「誰が正しいかではなく、何が正しいか」です。

 憲法と云ふなの文章でしかない 邪敎 日本國憲法。この憲法が、美しいわが國をどれだけ破壊してきたかは計り知れません。

國民主權:自分たちの勝手な我儘のためには國家を轉覆してもよい權利です。つまり、あのフランス人が今でも死ぬほど後悔してゐるおろかなるフランス革命のやうな權利です。王樣を、勢いで殺してもよい權利です。

基本的人權:人を殺してもよい權利です。でも、お互い誰に殺されるかわからない状況では自分の躰體が危ないので、國家で制限しやうといふもの。宗敎戰爭で、「異教徒は殺さなくてはならない」といふ考へのもとに生まれてゐます。だから、最近、平氣で人を殺します。

平和主義:自分さえ平和であれば他の人のことや國家など、どうでもよいといふ考へです。十四歳の女の子が、不埒なテロ國家に拉致されても、助ける意志さへ、國民が持ちません。

 こんな恐い憲法を、後生大事にしてゐるのが、今の、おろかなる私たちです。我が國史上、最低の國民ができてしまひました。

 十七条の憲法をまう一度、よく吟味しませう。私たち日本人の生きる心が書いてあります。

 第四条のつづきです。
 第四条の禮のつづきです。第一条が、我が國で最も大切な和です。弱い人間の集まりではありません。鍛え上げた己の力をお互いに使ひあふとき、人間の(集団の)力は最大限となることを和と云ひます。一致團結です。互譲互助です。武士道の精神です。この力があるから、我が國は、宗教がなくとも道德を保てた世界で唯一の民族となりました。

 第二条が、大宇宙の原則を守れです。三寳を敬へとは、さういふことです。自分勝手な考え(誰がただしか)ではなく、大宇宙の原理原則と和して生きていけと云ふことです。我が國の別名である大和とは、「大宇宙の原理原則を和して生きていく」といふ意味があります。

 第三条が、ミッションです。現代で云ふ「個性」は、本來の個性の意味とは違つてゐます。自分の好き勝手なことをやるのを個性と云ひません。その集團(家、會社、地域社會、國家等)の中で、自分の役割(使命)を探し、そして、それをコツコツコツコツ果たしていくことを使命と云ひます。一隅を照らすです。

 十七条憲法ができたのは、第三十三代天皇 推古天皇のときです。それまで營々と積み上げられてきた國家經營の經驗といふ土薹の上に書かれてゐます。「國家おのずから治まる」といふ表現に自信が見て取れます。「シラス」といふ國體を積み上げていけば、國は安泰だといふ意味です。

 和→原理原則→ミッションときて、そして、第四条が禮(礼)です。

 素晴らしいでしょ?十七条憲法は。私たち臣民のバイブルです。つづく(支那における禮と我が國の禮との違ひを書くつもりが・・・。すみません)。

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このページは、宝徳 健が2016年6月 7日 04:04に書いたブログ記事です。

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