母の命日と創業記念日(皇紀弐千六百七十六年七月十日)

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 今日は、母の命日です。我が家は、私たち兄弟が子どもの頃、とても貧しい家でした。でも、ひもじいと感じたことはありませんでしたし、卑下したこともありませんでした。食卓は、母が工夫した料理がいっぱい。おやつは、市販のものなどありませんでした。生卵1個、トマト1個、パンの切れ端(昔はパン屋さんに行けば、ただでもらえていた)の揚げパン・・・、一番おいしかったのは、今の時期の夏ミカンジュースです。夏ミカンの皮をむいて、それをコップに入れて、潰します。砂糖と重曹を入れると、ものすごくおいしいジュースが出來上がります。
 母は、三十數年間、病に苦しみました。歩くこともままならないほどに。でも、あんな苦しみの中で生きることを樂しんでゐました(こんなことを云ふと母に怒られるかもしれませんが、私の目にはさう移りました)。家事を手傳はうとすると、「これは、私の仕事。あなたは男でせう。他にやることがあるでせう」と怒られました。「自分でやらないと動けなくなるかもしれない。それが怖い」とも。

 勝てとは、一度も云はれたことがありません。「負けてはだめだ」とよく敎へられました。「人をうらやんではだめです。自分の生き方を持ちなさい」とも。

 親戚の人は、「健ちゃんには、お母さんは嚴しかつたよね~」と云はれますが、私には優しい母の想い出しかありません。傍目から見るとさうだつたのでせうか???

 入退院を繰り返す中、送り迎へをするととても喜んでくれました。時々、二人で食事に行くとそれはそれは喜んでくれました。

 母の意識のある最後を見たのは、妹と私です。見まいに行くと、死にそうなぐらい苦しそうな中で、手招きをします。「忙しいのに、いつも來てくれてありがとう」

 「僕の事なんかいい。それより、自分の事を考えな」

 医者が云ひました。「少しいいですか?」と別室に呼ばれ、「この薬を投与すると、樂になると思ふのですが」「なぜ、それを投藥しなかつたのですか?」「家族の同意がないと」。

 医者との會話です。殴り倒そうと思ひました。母が亡くなつても、顔も出しませんでした。

都立大塚病院です

 医師とは、医療としてのテクニカルスキルはを持つのは當然です。それ以上に、ヒューマンシップが大切なのでは???? そんな醫者には、10人中1人會へるかどうかです。

 まあ、人のことはいいや。

 15周年。この3年間ぐらい、この年にしてかなり惱んでゐました。でも、かなりふつきれてゐます。私の人生のスタートです。使命を果たさないと。力強くではなく、人を活かす参謀として。

 朝、起きると、いつものボロボロの軆體に気づく母。絶望の人生の中で、子供の成長を樂しみ、そして、自分の使命を果たしました。母の生き樣を知つた自分は、今の生き方ではダメです。

 母は、病を通して、私の最後の教育をしたのですね。かういふ日があることに感謝します。人間はいつも穢れます。今の、都合の良いことにも惡いことにも影響されて。いつも自分をニュートラルな位置における自分創り(マインドフルネス)が大切なのですね。

お母さん、私を産んでくれてありがとう。あなたの子供で生まれてきたことを誇りに思ひます。

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このページは、宝徳 健が2016年7月10日 06:47に書いたブログ記事です。

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