安心(皇紀弍千六百七十六年五月三日)

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 今日は、憲法と云ふ名の文章でしかない、邪敎 日本國憲法の日ですね。その邪敎ぶりをしつかりと檢證するのもよいのでは?

 さて、普段何氣なく使つてゐる言葉が実は佛敎用語といふものを紹介してゐます。實は、安心もさうなんです。

 佛敎では「安心」は「あんじん」と讀みます。

 人生は不安だらけです。だからこそ人間は、より豐に行きたいといふ希望を持ちます。

 でも、釈尊でさへ若い頃惱み抜いた生老病死から人間は簡單に逃れられるわけではありません。

 「あんじん」は、心が宗教的な意味で不動の境地に達した状態をいひ、悟りを得たといふことになるのです。迷いと苦腦の多い私たちは、利害得失に一喜一憂し、日常の生活が安定すると安心します。しかし、さらに高いレベルの安心があることもわすれてはならないふのが佛教の教へです。

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このページは、宝徳 健が2016年5月 3日 07:22に書いたブログ記事です。

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