フランス革命と保守(皇紀弐千六百七十六年五月二十一日 四)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 故宇佐美の親父に怒られさうですね(笑)。「寳德、いつも同じやうにやれ。調子が良いからたくさんやつて、調子が惡いとやらない。そんなことではだめなんだ。いつも同じやうにやれ」といつも敎ていただきまhした。う~ん。ごめんなさい。コツコツ書かねば。

 シャトーブリアンが擧げたアメリカの問題點の三つ目です。
 法の問題です。

 イギリス人は古いものを尊重します。なので、憲法が慣習法となつてゐます。アメリカ人は、新た強いものを好みます。

 イギリスの清教徒がアメリカに渡つたのが、1620年です。日本では江戸時代初期です。以後、植民者數が増え續けます。植民者數が増えるのに比例して、イギリスの清教徒の運んだ、風習、慣習が影を薄くしていきました。次に、イギリスの經驗論や、フランスの啓蒙思想を受けて獨立したアメリカは、1776年以降、契約社會となりました。

 慣習、風習よりも法が尊重されるやうになりました。契約社會になつたアメリカに、さらに民族、言語、宗教、利害を異にする入植者が入り、ますます傳統的な風習、慣習がなくなつてしまひました。

 シャトーブリアンが接したアメリカは過去を持たない雨離なであり、法を金科玉条にするアメリカでした。

 シャトーブリアンは、かう表現してゐます。「冷酷非情なエゴイズムが都市を支配してゐる。銀貨、ドル、銀行券、紙幣が財産を降らしたか、減らしたか、これが話題のすべてだ・・・新聞には多様性が認められるが、載ってゐるのは粗野な事件や話題ばかりである」

 結局夢を持つてアメリカに來たシャトーブリアンですが、失望を覺えずにはいられなくなったのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/6321

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2016年5月21日 11:45に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年五月二十一日 參)」です。

次のブログ記事は「融通(皇紀弐千六百七十六年五月二十二日)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。