十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年六月四日 弐)

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 聖德太子の十七条憲法です。今日から第四条です。
 四に曰はく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりゅう)、禮を以て本(もと)とせよ。それ民を治むる本は、必ず禮にあり。上、禮なきときは、下、斉(ととのお)らず、下、禮なきときは、かならず罪あり。國家おのずから治まる。

 第四条
 もろもろの官吏は禮法を根本とせよ。そもそも人民を治める根本は、かならず禮法にあるからである。上の人々に禮法がなければ、下の民衆は秩序が保たれないで亂れることになる。また下の民衆の間で禮法が保たれなければ、かならず罪を犯すやうなことが起こる。したがつてもろもろも官吏が禮を保つてゐれば、社會秩序が亂れないことになるし、またもろもろの人民が禮を保つてゐれば、國家はおのぞから治まるものである。

 先日、息子と話していたら、ボソッと獨り言を云ひました。「なんで武士をなくしたんだらう」。

 江戸末期に我が國に來た外國人は、自分たちの國では當然のやうにやつてゐる、ワイロを我が國の役人に渡さうとしました。すると、我が國の役人は、怪訝そうな表情で、斷りました。武士の政治とは髙潔だつたのです。

 我が國は、支那からいろいろなものを導入し、そしてそれを獨自に髙め、使用しました。しかし、決して導入しなかつたものがあります。纏足、拷問、食神文化、科擧、後宮・・・・・。枚挙に暇がありません。
 
 しかし、悲しいかな、明治維新は下級武士の政治改革でした。この人間がいなかつたら、絶對に明治維新は成功してゐないと斷言できる人間は二人しかゐません。大久保利通と髙杉晋作です。他は下級武士です(裏方としての役割の西郷隆盛はいるが)。

 山縣有朋などは、軍事顧問から日本刀は素晴らしいから軍刀にするようにと進言されたにもかかわらず、武士の世を嫌い、サーベルそ採用したぐらいです。

 そして、江戸幕府が崩壊したのは、政治の堕落がその主たる原因ではありません。經濟です。どだい、400萬石の德川家が、3,000万石の全国を經濟で抑えられるわけがありません。金融政策がとれません。家光の時代まではまだ金山豊富にあつたので、なんとかなりましたが、金が枯渇すると、金融政策がとれないので、デフレになります。技術が發展し向上する生産性を伸ばす手段がとれないのです。

 そして、金本位がとれなくなると、經濟の仕組みが米本位になります。この〇〇本位といふのは、金融政策がその〇〇に裏付けられるので、〇〇が限度いっぱいになると金融政策がとれなくなります。
それでも、その金本位制を推し進めやうとした昭和の政治家 井上準之助といふ愚か者がいました。それを城山三郎は「男子の本懐」といふ本で絶賛します。司馬遼太郎、山崎豊子、白山三郎、吉村昭、半藤一利・・・。讀んではいけません。私のやうに一度思いつきり騙されたい人はどうぞ。

 話を戻します。江戸時代の經濟を立ち上げ、我が國を再生に導こうとしたのは田沼意次でした。彼は、外交も防衛もすごい。地政學も知つてゐました。それを追い落とした家斉、寛政の改革で前日銀総裁の白川のやうに我が國をデフレに導き、江戸幕府破綻のスタートを切つた、松平定信、やらんでよいことばかりやつた水野忠邦・・・・。私たちは、これを歴史で、正しい人と習ひました。
 
 何がいいたいか。明治維新は彌賛します。でも、武士はなくしてほしくなかつた。経済の仕組みさへ變へれば、武士はあつてもよかつた。

 武士がいてくれれば、今の、設計主義の官僚など不在で、共同體ミッション主義の社會がまだ根付いてゐたでせう。禮の世界が今でも生きていたでせう。

 さて、この我が國の禮は、支那の古典でいふところの禮とは、違ひます。次囘。

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このページは、宝徳 健が2016年6月 4日 04:33に書いたブログ記事です。

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