刹那(皇紀弐千六百七十六年六月九日)

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 あの、北海道の子供置き去りの事件の件でどうしてもひつかかることがあります。「お父さん、優しいから許す」なんてことを子供が云ふでせうか。過程はどうあれ、原因は子供の不始末です。それに「親を許す」といふ發想は、今まで、私は持つたことがありません。よく調べると、この子は、何にでも石を投げることをよくやつてゐたさうです。

 世の中で大切なことは何か。「何が正しいか」を學ぶこと、そして、自らの使命を追求し續けることです。それが八千數百年もの間、人間社會の奇跡である我が國の在り方なのです。

 我が國では、宗敎といふと、なにか、いや~な感覺があります。でも、本来は、「正しいことを敎へる」ことです(キリスト敎カトリック敎會主義は違ひますが)。

 佛敎は、一神敎とされてゐますが、違ひます。それに、キリスト敎のやうに「神のみを信じろ」とは言つてゐません。自分の中に在る宇宙を見つけなさいと敎へてゐます。

 私は、佛敎徒ではありませんが、正しいことを知りたいので、佛敎の本は結構讀みます。

 今日の言葉は「刹那(せつな)」です。
 今は、テレビであまりこの言葉は聞かなくなりましたが、かつてはよく「その刹那!」といふ表現が使はれてゐました。さうすると、觀てゐてもグッと、緊張感が高まります。

 今はどちらかといふと「刹那的な生き方」とか「刹那主義はダメだよ」と、否定的な言葉が連想されます。

 佛敎用語では、「刹那」 は「きわめて短い時間。瞬間。時間の最も短い単位」という意味です。ですから、以前の使ひ方のはうが、正しいのですね。

 さうなると、「刹那主義」は、素晴らしい考え方だと思えます。云ひ換えれば「瞬間主義」あるいは「現在主義」です。

 「瞬間を本當に充実して生きる生き方」になります。「今(瞬 間)がよくなければ過去も将来もよくならない」という積極的な態度です。

 全ての人間に共通することは、いつか死ぬことです。死ぬまで生きると考へてもいいでせう。過去・現在・未來を成り立たせている「瞬間=刹那」をもつと見つめなきゃ。

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このページは、宝徳 健が2016年6月 9日 07:37に書いたブログ記事です。

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