觀念(皇紀弍千六百七十六年五月八日)

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 普段、何氣に使つてゐる言葉で、實は佛敎用語だつたといふものを紹介してゐます。今日は「觀念」です。
 「觀念」は元は佛敎用語です。「觀」とは智慧を持つて深く觀察すること、「念」とは思念することで、どちらもサンスクリット語の漢訳です。觀察し 思念する對象はもちろん、佛敎の眞理や佛の姿で、「我れ一心に極樂を觀念するに、他の思ひ出來れば、其の妨(さまたげ)と成る故也」(今昔物語)の「觀念」がそうです。

 そして、觀察・思念がうまくいけば、佛敎の眞理を悟ることになりますが、廣く一般的な事柄について、何事かがどうしようもない事態に至つたと悟れば、 それは「あきらめ」につながります。つまり、「あきらめ」義の「觀念する」は佛敎用語としての「觀念」の延長線上にあるということです。

 以前にも書きましたが、本來の「あきらめる」は、「ものごとを徹底的に明かにしたあと」やる行爲です。ですから、すぐにあきらめてはだめなんですね。

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このページは、宝徳 健が2016年5月 8日 09:59に書いたブログ記事です。

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