餓鬼(皇紀弐千六百七十六年六月三日)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 普段、何氣なく使つてゐる言葉が、實は、佛敎用語だつたなんてものを紹介してゐます。

 今日は、「餓鬼(がき)」です。

 佛敎では、人間が迷いを以て行き來する六つの世界があります。天道(てんどう、天上道、天界道とも); 人間道(にんげんどう); 修羅道(しゅらどう); 畜生道(ちくしょうどう);餓鬼道(がきどう); 地獄道(じごくどう)です。人間道まではまだ良いのですが、畜生道以下は、迷いに迷つた人が入り込む世界です。

天道
天人が住まうとされる世界の事です。天を自在に飛び、苦しみも他の五道に比べ遥かに少なく、享楽のままに暮らす天人達の世界ですが、天人達も所詮煩惱に囚はれた存在に過ぎないとされます。ま た、天人は不老長寿であるが不死ではないとされました。天人が死を迎へるときには五衰と呼ばれる恐ろしい苦しみが待つてゐます。

人間道
人間道とは、我々人間が住まうとされる世界の事です。四苦八苦し、自らの思い通りにならないため天道に比べれば苦しみの多い世界です。でも、苦しみばかりではなく樂しみも訪れる世界です。また、この世界では唯一自力で佛と出會ふことができ、解脱することができるといわれてゐます。

修羅道
修羅道とは、修羅が住まうとされる世界の事です。修羅達は怒りのままに常に戰ひ續け、爭ひばかりが巻き起こる世界である。しかしながら、地獄と比べものになる事はありません。何故なら、その爭争いの原因は全て自らに起因するからである。その爲、なぜ怒りなぜ爭ふのかといふ事象に疑問を抱く事で、他の世界へ輪廻することができる分まだ救いのある世界でもあります。

 この三つを三善趣と云ひます。


 畜生道
畜生道とは、畜生すなはち「人間以下の者」への轉生(転生)です。人間と同じ現世への転生ですが、人間ではないそれ以下の存在へと轉生してしまふことを指します。畜生を動物と解釈する見方もありまうすが、六道を本來の転生ではなく心の状態とみなすなら、畜生とは動物ではなく「本能のままに行動し、考へる事もなく、ただひたすら使はれ續ける哀れな人間」となるのでせうか。畜生道に落ちたものは本能のままに行動し、また成すがままに使役されるだけの存在となってしまう。そのため、佛の敎へを受ける事のできない救いの少ない世界とされています。恐~。

餓鬼道
餓鬼道とは、餓鬼たちが住まうとされる世界の事でう。餓鬼は生前に他人に慮る事をしなかった、強欲で非情な人間の成れの果ての姿とされます。餓鬼となつたものは常に飢えと乾きに苦しむものの、いざ食べ物を食べやうとすると火となつてしまひ、決して満たされる事なく苦しみ續ける世界です。あれも欲しい、これも欲しいと飽くなき慾の追求をしている人たちですね。

地獄道
これはまう、救ひやうがないひとたちの入る世界です。解説すると長くなるので、簡單に。

  地獄名        罪名                         刑罰
等活(とうかつ)殺生鬼に殺され、互いに殺し合い、生き返つてまた殺される

黑縄(こくじょう)窃盗砕き殺しては鉄の釜で煮られる

衆合(しゅごう)淫慾岩鉄で潰され剣山で切り裂かれる

叫喚(きょうかん)邪な飲酒熱釜で煮る、溶けた銅を飲ませる等

大叫喚(だいきょうかん)虚僞この世で最も恐るべき炎で焼かれる

焦熱(しょうねつ)因果を否定する邪な考え上の各地獄の炎が冷たいと思へる程の火力で焼く

大焦熱(だいしょうねつ)浄戒を保つ尼への乱暴源信にも詳しくは述べられないとか


無間(むげん)・阿鼻(あび)全ての戒に背きながら僧侶としての施しを受けた者源信曰く刑罰の内容を聞いただけで死ぬ


 かういふのを書いてゐると真面目に生きなければと思ふのですが・・・・・。

 まあ、とにかく、餓鬼といふのは、なんでもかんでも慾しがる人の事です。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/6344

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2016年6月 3日 07:07に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「源氏物語 6(皇紀弐千六百七十六年六月一日 四)」です。

次のブログ記事は「蜜月(皇紀弐千六百七十六年六月三日 弐)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。