冥利(皇紀弐千六百七十六年六月十四日)

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 普段、何氣なく使つてゐる言葉が、實は、佛敎用語だつたなのてのを紹介してゐます。

 今、テレビを見てゐたら、NHKに有村架純さんが出てゐました。私は、あまり若い女優は好きにならないのですが、この子は好きでした。過去形にしたのは、それも今日で終はりだからです。

 日本語が美しくない。素敵な女優さんが、亂れた日本語を使ふと、泣きさうになります。有村さんも、「全然大丈夫です」「見れます」「食べれます」「すごいきれい」などなど・・・・。あ~あ~。もつたいないな~。まだ、語尾上げ言葉を使つてゐなかつたのですが。

 我が國は、言霊の幸(さきは)ふ國です。世界で一番美しい日本語、言霊が宿る日本語を使ひ合ふので、みんなが幸せになるといふ意味です。

  「今は、それが普通なの」・・・、やめませうねこの言葉。異常なマジョリティを普通といふから世の中がおかしくなります。

 本題に戻します。今日は「冥利(みょうり)」です。
 冥利と云ふと、男冥利とか~冥利とか、自然と得られる恩恵として現代では使はれてゐます。

 本來の佛敎用語では、佛が知らず知らずのうちに與へる恵やしらないうちに頂く恩恵のことを云ひます。

 中學生のとき、佛敎は、一神敎だと敎へられました。うそですよね。確かに、キリスト敎やイスラム敎は一神敎です。一神敎とは、不便なものです。だから、かれらはつい最近まで「異教徒は殺さなくてはならない」と、宗敎戰爭を繰り返してゐました。

 仏敎は、そんなことはありませんし、釈尊だけではなく、大日如來や、阿弥陀如來などもいらつしやいます。釈尊は、人間界でただ一人如來になつた人で、佛はたくさんゐます。だから一神敎ではありませんし、何より、ユダヤ敎やキリスト敎やイスラム敎のやうに「自分の神だけを信じろ」とは云ひません。自分の中にこそ「大宇宙」があると説きます。

 特に我が國では、信長が、比叡山や石山本願寺を焼き討ちにしてくれたおかげで、他國で起きるあの、醜い宗敎戰爭が皆無でした。

 だから、何かの佛を信じるのではなく、自分の中に、その使命を見つけることです。母や父の無償の愛などまさに、佛の敎へです。誰もが心をなごます赤ちゃんの笑顔も佛の敎へです。

 さういふ風に、私たちは、知らず知らず、佛の恩恵をいただいてゐます。幸せですね。冥利とはさういふ意味です。

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このページは、宝徳 健が2016年6月13日 20:48に書いたブログ記事です。

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