そこはか(皇紀弐千六百七十六年九月五日 弐)

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「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

 云はずと知れた 徒然草(吉田兼好)の出だしです。髙校時代、古文はどちらかと云ふと好きではありませんでしたが、今は、我が國文學の素晴らしさに目覺め、大好きになつてゐます。これほど面白いものかと。今の學校教育は、子供を勉強嫌いになるやうにカリキュラムが組まれてゐます。そこにきて、親がまた、「勉強しろ、勉強しろ」と云ふと、まずいものを強制的に食はされてゐる感じになり、子供がさらに勉強嫌いになります。また、試験をモチベーションの源泉にした、試験に合格するための勉強になるので、教養が軆につきません(私は若いうちの知識教育は否定しません)。

 この徒然草の出だしの中に含まれる「そこはかとなく」は、とても素敵な日本語なのです。
 「そこはか」は、語源が「そこは彼(か)」といふ説と「そこ」に目當てや仕事の進み具合を示す「はか」がつひたと云ふ説があります。

 いずれにしてもきっちり「そこだ」と云へるほど明かと云ふ樣子をあらはす言葉です。

 ですから「そこはかとなく」となると、はつきりしない樣子を意味します。

 最近では「そこはか」と「そこはかとなく」が混同してしまつてゐますが、この日本語のファジーさもいいですね。

 言葉をかういふ風に教えていけば、子供は勉強が好きになります。

 勉強するのは子供の仕事です。「勉強しろ」と親が云って、子供の仕事をとらないでください。

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このページは、宝徳 健が2016年9月 5日 07:38に書いたブログ記事です。

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