フランス革命と保守(皇紀弐千六百七十六年八月二十七日 弍)

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 あの倉山満をして「この本を讀まずして保守を語るな」と言はしめる本「フランス大革命に抗して シャトーブリアンとロマン主義 伊東冬美著」を解説してゐ ます。今でも、多くのフランス人が、あの革命を心から悔やんでゐます。なのに、我が國は、「國民主權」といふ愚かな概念を賛辞します。

 1792年8月にジロンド黨が指導權を手中に収めるまで、立憲王政派が議會の指導權を保持します。でも、ヴァレンヌ事件をめぐる審議の際に、共和派は急速に發言力を強めました。議席数は少數でしたが、共和派は、議場において積極的に發言し、フランス革命を推し進めます。
 ヴァレンヌ事件(ルイ十六世一家逃亡事件)以後、かうして、大革命の嵐が猛威を振るうやうにんり1791年末から1792年にかけて、領主の館が略奪されたり、破壊されたりしました。

 少し遡ります。1789年七月に亡命した貴族 アルトワ伯爵は、ブリュッセルに到着しました。ブリュッセルを選んだのは、ザクセン‐テシェン公后 マリア・クリスティーナがオーストリア皇帝ヨーゼフ二世の名代としてベルギーを統治してゐたからです。彼女は、マリー‐アントワネットの姉で、ヨーゼフ二世は、兄であることから、助けを求めたのでした。

 でも、アルトワ伯爵の期待は裏切られます。「ベルギー滞在は遠慮されたし」と記したヨーゼフ二世の親書を、クリスティーナ公后からつきつけられたのです。

 フランスで革命派が王室に刃を突き付けてゐるときに、アルトワ伯爵の希望を受け容れれが、内政干渉といふ外交問題に發展するからです。

 アルトワ伯爵は、ベルギーを出てスイスに行きました。

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このページは、宝徳 健が2016年8月27日 08:35に書いたブログ記事です。

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