十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年九月二十五日 弍)

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 十七条憲法の解説があいてしまひました。

 大日本帝國憲法が公布されたとき、歐州の學者は云ひました。「こんなに國民に、權利を與へていいのか」と。

 ご存知の通り、大日本帝國憲法には、主權といふ言葉がひとつもありません。天皇陛下と太古の昔から心で結ばれてゐる私たちは、權利・義務發想で、國づくりを共に歩んだ歴史などありません。天皇陛下は、私たちを「おほみたから」として、誰よりも大切にしてくださしました。公地公民ととして、誰の支配も受けたことがない歴史を有してゐます。

 それだけをみても、今の、憲法と云ふ名の文章でしかない 邪教 日本國憲法は、我が國の憲法ではないことがわかります。

 第八条は「自然道に基づく生活時間」を説いてゐます。
 働き方改革だとか、労働時間だとか、世間では耳に心地よい言葉が飛び交つてゐます。これこそ、我が國の在り方に唾するものです。 放つておいてほしい。働いて何が惡い。耳に心地よい言葉はすべて惡です。

 私達日本人は、時間ではない基準、たとへば、仕事の進め具合によつて生活時間を決める習慣があります。時間の長さで労働量を計るマルクス主義的な價値觀は、日本人にはあはないのです。

 キリスト敎の結婚式に招かれるとびつくりします。「あなたは、この人を愛することを神に誓ひますか」と神父が尋ねます。

 神と契約しなければ結婚もできないのが彼等です。

 契約として生まれたのが歐州の文化。私たちは自然道と共生してきました。違ひますよね。

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このページは、宝徳 健が2016年9月25日 04:36に書いたブログ記事です。

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