ローマ帝國(皇紀弐千六百七十六年十月六日 四)

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 先日、誰だつたかなあ、話していて意気投合したことがありました。我が國女性がさす日傘ですが、あれは、歐州でうんこ防止のためにできました。かつての歐州は、うんこをアパートの2階や3階から捨てていたので、下を歩いてゐる人はたまつたものではありません。上から落ちてくる、うんこに當たらないやうにできたのが日傘です。だから、歐州の人が日本に来て、あんなにたくさんの日傘をさしてゐる人を見てびつくりするさうです。我が國は、きたないものでも、美しく使ふのですね(笑)。

 ちなみに、ハイヒールは、下に落ちてある、うんこを踏まないやうにできたものです。

 まあ、これは中世の出來事ですので、今から書こうとしてゐる古代とは直接つながらないかもしれませんが、似たやうなものです。

 歐州が古代史に華々しく登場するのは、ペルシャ戰爭(アジアですが)、アレキサンダー大王とローマ帝國の五賢帝ぐらいです。つまり、歐州が歴史をつかさどつたこの3つの事件は、例外なのです。
 ローマ帝國はその版図を伸ばします。紀元二世紀の百年間、五賢帝と呼ばれる時代には、アッシリア(エジプトの東)やメソポタミア(イラク)を制しました。


 ちなみに、五賢帝とは、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの五人です。

 でも、二人目のトラヤヌス帝を頂点にローマ帝國の領土は縮小していきます。

 ローマ帝國最大の失敗は、キリスト教の公認(313年)です。これを境に、ローマ帝國は、科學技術を急速に失い、衰亡します。なんと、ローマ帝國は、この時期にもう、上下水道が完備した文明國でした。

 キリスト教は、「すべての知識は聖書にある」としますので、他のことを研究するのが禁止されていたのです。つひにローマ帝國は、きわめて不潔な國になりました。最初に日傘をハイヒールのことを申し上げたのはこのためです。

 330年にコンスタンティヌス帝は、ローマからコンスタンチノーブルへの遷都を決斷します。そして、395年にローマ帝國は、東西に分裂します。

 私たちは教科書で、東西の分裂は習ひましたが、その理由まで學習してゐません。かういふ眞實を隱すから歴史が面白くなくなります。

 コンスタンティヌス帝は、何を意図して遷都したか。さうです。西歐を切り捨てて生き延びやうとしたのです。

 現に東ローマ帝國(ビザンチン帝國、ギリシャ帝國)は、千年の延命を果たします。西ローマ帝國は、分裂後、八十年ぐらいしか續いてゐません。

 キリスト教と書きましたが、カトリック教會主義です。

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このページは、宝徳 健が2016年10月 6日 06:57に書いたブログ記事です。

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