十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年十月六日)

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 今日は、九条の譯です。

第九条
 まこと(信)は人の道(義)の根本である。何ごとをなすにあたつても、まごころをもつてなすべきである。善いことも惡いことも、成功するのも失敗するのも、かならずまごころがあるかどうかにかかつてゐるのである。人々がたがいにまごころえお以て事にあたつたならば、どんなことでも成し遂げられないことはない。これに反して、人々にまごころがなけれれば、あらゆることがらがみな失敗してしまふだらう。
 國家を導き、そして、國家をただす文章に、「まごころ」と堂々と書くことができるのは、我が國だけでせう。

 國や組織を動かすのに、スキルやノウハウなどの「技術」はもちろん必要です。でも、聖德太子は、それではだめだと仰ってゐます。「心だ」と。

 技術だけでもダメ、心だけでもダメ、そして、「技術」+「心」でもダメなのです。「心」+「技術」なのです。

 今、我が國が、なぜ、あんなにたくさんのノーベル賞を受賞できるかをみてもわかると思ひます。

 あっ、さうだ。今囘のノーベル醫學生理学賞 受賞の大隅先生は、我が髙校の卒業生です。我が母校は、來年、百周年です。奇跡のやうなタイミングですね。百周年記念講演はこれで決まりです。
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 聖德太子は、何事をなすにあたつても眞心をもつてすべきであると説きます。最も日本的な道德規律です。「十七条憲法」以前、はるか何千年物昔から私たち日本人が守つてきた生き方の基本であり、今でも、多くの日本人の態度を律している考え方です。おそらく「まこと」も「まごころ」も口承言語時代からあつた言葉なのでせう。

 心といふものは、自然自體がもつてゐる、「氣」です。本質的なエネルギーととらへてもよいでせう。

 エネルギーといふものがあるからこそ、「自ら然り」がある。木がどんどん大きくなつて緑の芽をつけ、それが幹となり、葉になつて成長していくと花になり、實をつける。

 これは自然の眞心の發露です。眞心がなければ、朽ちてしまひます。眞心は、自然神です。

 私たち日本人は、自然の中で起きてゐることをたくさん知つてゐます。歐米人のやうに、秋の虫の音を「ノイズ」ごは云ひません。つまり、二hン人には、自然が自然に行つてゐる「コト」を知ると云ふ、「眞心」があるのです。

 結果として、それが人と人との心をつなぎあい、信用、信頼につながります。つまり信(まこと)です。

 聖德太子が説く「和」」とはこのことです。

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このページは、宝徳 健が2016年10月 6日 00:41に書いたブログ記事です。

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