十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年十月二十七日 弐)

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 今、太平記を讀み返してゐます。面白いですね~。我が國が最も活性化した時代。室町。佐々木道譽が大好きです。でも、後醍醐天皇が良い人に書いてあります。とんでもないですね。先日の産經新聞でも、「さすが後醍醐天皇」と書かれてありました。我が國の歴史上、「天皇を廢止していいか」といふ國民投票をもし行ったとしたら、可決されてしまひさうなのが後醍醐天皇の時代です。

 もちろん皇室も人間です。いろいろな苦難を乘り超えて今の皇室があります。むしろ、人間として生まれて、あのやうな過酷な生活を過ごされてゐること自體が奇跡ですが。

 さて、十七条憲法。繰り返しますが、江戸時代の寺子屋の「讀み」「書き」「そろばん」の「讀み」は、支那の古典ももちろんありましたが、基本は十七条憲法と貞永式目でした。十七条憲法で日本人としての精神性を學び、貞永式目で、日本人として生きるルールを學びました。

 十条の解説をしませう。
 十条では、「結局人間とは凡夫にすぎない」を説いてゐます。

 人間一人ひとりの違いは、大自然、大宇宙の前では微々たるものでしかなく、各々の人間の能力にも限界があり、大した問題ではない。だから小さなことでいちいち目くじらを立てるなと。

 一人は小さな力だからみんなで力を合わせて大きな効果を出さうといふ「結い」の概念につながってゐます。

 その集團の中で、自分の役割を見つけてコツコツと果たしていく。これが個性の本當の意味です。勝手気ままにやることを個性と呼ぶ今の教育は間違つてゐます。

 だから、宗教がなくても道德が維持できる世界で唯一の國となりました。神道は宗教ではありません。教義も経典も戒律もありません。我が國は、こんなに素晴らしい國なのです。

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このページは、宝徳 健が2016年10月27日 06:28に書いたブログ記事です。

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