一緒に死んであげます(皇紀弐千六百七十六年十月二十八日)

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 いきなり過激なタイトルですみません(笑)。
 
 親戚の人からいつも言われるのが「お母さんは、健ちゃんに嚴しかったね~」です。私には、母の優しい思ひ出しかないので、言われるたびに不思議な氣持ちになります。確かに、嚴しかつたのですが、その何十倍も優しかつたからだと思ひます。

 母は、三十數年間病氣でした。入退院と手術を繰り返し、全軆リューマチで、関節はほとんど人工関節でした。毎朝、起きても、治ることにない自分の軆體をみてどういふ思ひで生きてゐたのでせう。
 それでも、家事を手傳はうとすると、「これは私の仕事。あなたは男でせう。もつとやることがあるはずです」と怒られました。今の女性とまつたく違ひますね。

 男は、とても愚かな存在です。優秀さでは女には絶對にかなひません。でも、ひとつだ女性よりも優れていることは、夢に向かつて戰つていく力を持つてゐることです。天下國家を考へることです。情けない男は、放つておくと、それを忘れ、遊び始めます。かつての我が國の婦道は、それを許しませんでした。家事や育児なんかに逃げる男を許しませんでした。そんなことをさせたら、男は自分たち以下の働きしかできないといふことを知つてゐたのです。

 今の親は、喧嘩をするなと子どに云ひます。私は、「男が喧嘩のひとつやふたつできなくてどうするの」と育てられました。喧嘩で敗けて歸へると「お母さんは、そんな弱い子を産んだ覺へはありません。もういちどやつてらっしゃい。勝つまで歸つてきてはいけません」と。

 息子が小さいとき學校で喧嘩をしました。學校から電話がありました。たまたま家にいた私が電話を取りました。「今日、宝徳くんが喧嘩をしました」と。私は「勝ちましたか負けましたか?」と聞きました。先生は、予想もしない私の答えに絶句してゐました(笑)。

 母には、「國のためになれる男になれ」ともよく云はれました。教育勅語にある「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」ですね。

 私が惡いことをしたときのことです。包丁が飛んできました。「今から、それで死になさい。一緒に死んであげるから」と目に涙をいっぱいためて云はれました。これ本氣だつたので怖かつた。

 姉に男の子が生まれました。母が姉に言いました。「男の子はね、その日のうちに生きて歸つてくればそれでいいのよ」。

 喧嘩で顔を2倍ぐらい腫らして歸つたときも、黙つて遠くに遊びに行つたときも、山に栗を拾いに行き、夜まで歸つてこなかつたときも、歸ると何も云ひません。むしろ楽しんで話を聞いてくれました(喧嘩以外は。喧嘩で敗けたら怒られるので喧嘩の話はできなかつた)。どれほど心配だつたかわかりません。姉には、「どんだけ心配かけたと思つとるん」とよく怒られますが・・・。

 昔の婦道を持つた母親は、男の子を育てるのに必死だったのですね。

 だから親戚の人は、母が私に對して嚴しかつたと云ふのでせう。私にとつては、これらも含めてすべて優しい母の思ひ出です。

 女が男の本質を引き出す美しい教育が生きていたころのことです。

 今は、弱い男をつくる教育が行はれてゐます。

 ああ、寺子屋を創りたい。仕事を引退したら、寺子屋を創ります。

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このページは、宝徳 健が2016年10月28日 11:40に書いたブログ記事です。

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