日章丸事件(皇紀弐千六百七十六年一月廿日 弐)

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 今年九十歳になる父が終活に入つてゐるやうです。以前は百三十歳まで生きると言つてゐましたが、この前来た手紙には「九十歳まで生きるとは、思つてゐなかつた」と書いてありました。母が六十二歳で亡くなつたのが、平成七年。神戸震災の年です。もう二十二年になるのですね。

 父は最近頻繁に手紙をよこします。寳德家をつないでおきたいのでせう。私と息子に。

 その父が、母の思い出ともに書いた「日章丸」事件を送つてきました。父は、「かつての」出光興産の大ファンです。長い文章なので、數囘にわけてご紹介します。原文ママです。
☐日章丸事件
出光佐三店主の指示「アバダンへ行け」
「ペルシャ湾上の日章丸」


 大英帝国の影響下にあったイランは、第二次世界大戦後独立したが、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本の元にありイラン国庫にも、国民にも利潤が十分回らない状況にあった。

 その中で、イランは1951年(昭和26年)に石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。事実上の経済制裁・禁輸措置を執行するイギリスにイランは態度を硬化させた。

 一方、日本は第二次世界大戦後、イギリスやアメリカなどの連合国による占領を受け、占領終了後も両国と同盟関係にあるために独自ルートで石油を自由に輸入することが困難であり、それが経済発展の足かせとなっていた。

 イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産㈱店主の出光佐三は、イランに対する経済制裁に国際法上の正当性はないと判断し、極秘裏にタンカー・日章丸を派遣すつ事を決意した。  つづく

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このページは、宝徳 健が2017年1月20日 08:26に書いたブログ記事です。

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